■調理師を目指すが、芸能界の扉が開いて
永作博美さんは1970年10月14日、茨城県で生まれた。「3人娘の真ん中」として育った次女だ。
「関東平野にあって、実家の後ろは霞ヶ浦と、大地と湖に恵まれた環境で過ごしました」
忙しい両親から、幼少期は「細かいことを言われず、干渉されずに」育てられたという。家業に明け暮れる両親に代わり、大人でよく一緒にいたのは、父方の曽祖母だったそうだ。
「幼いころ、両親からこまごまと言われた覚えはないんです。姉と妹がいましたが、私は単独行動することが多く、一人で遊んでいました。学校の行き帰りも、あっちに行ったり、こっちに来たりの寄り道も、一人でした」
もちろん小学校では団体行動が基本だし、友達といれば友達同士のペースに合わせることになる。
「だから、『周りのペースに合わせるのは、学校だけでじゅうぶんだ』と私は思っていたんです」
こうして独創的かつマイペースで過ごしてきた永作さんだったが、義務教育が終わると一転、家事を任されることになったという。
「高校1年生、16歳になる年に、急に母に言われて、夕食を任されるようになりました。母は『16歳になったら』と決めていたんでしょう。姉も夕食を任されたのが、そのタイミングでしたから。たぶん母自身が若いころ、してきたことだろうと」
さらには。
「母は朝早くから(仕事に)出てしまうので、家族分の夕食のほか、朝、学校に持っていく弁当も作りましたね」
そんな“指令”に対して、年ごろの娘は当然、反発心がまさる。
「ええ、『なんで私がやらなきゃいけないんだろう?』と思っていました。周りの友達は、部活や遊びと自由にやっていましたから」
永作さんは当時、バレーボール部に所属していたが、部活をしていると夕食の支度が間に合わないため、結局は部を辞めざるをえなくなったのだ。
「母とは、ケンカになりました。『なんで家のことで、部活を辞めなきゃいけないの?』って口利かなくなって(笑)。でも、私は特段バレーボールがうまかったわけでもない。部活を、家事をしないですむ大義名分にしたかっただけだと思います」
そのように、親からの言いつけを渋々聞き入れた高校時代だったが、3年生のときに一つの転機が訪れる。「歌うことが好き」だった彼女はフジテレビの深夜番組の「高校生女子の出演者募集」に応募し合格。
芸能界と接点ができたが、現実的な職業としては調理師を考え、卒業後は、ひとまず調理師学校にも通っていた。
その後の1989年、3人組アイドルグループ「ribbon」のメンバーとなり、歌手デビュー。しかし女優のほうは「演技なんて恥ずかしくて、とてもできないと思っていた」と、意外なことを告白してくれた。
「じつは、デビューしてからの数年間は、いつ辞めても、おかしくなかったんです。私自身、女優にまったく向いていると思っていませんでしたし、何度も『辞めたい』と思いました」
いまも、そう話すほどだから、「イヤイヤやっていた」のだろう。初舞台となった劇団☆新感線の戯曲『TIMESLIP 黄金丸』(1993年)の稽古も「本当にイヤだった」と振り返る。
「“やる気なし”で、座長(同劇団主宰・いのうえひでのりさん、66)の指導も、受け入れることをせずに『こんなの嫌だ!』っていう感じがマックスだったと思うんです。いま考えれば『甘えもいいとこ』ですが……」
ところがある日の稽古で《こうなっちゃったんだから、しょうがないじゃない!》というセリフに、積もり積もった「嫌だ!」という感情が「ちょうど乗った」という。すると演出のいのうえさんに、「それでいいんだよ!」と、初めて褒められた。
「それまでずっと、怒られ続けていたのに、『いまメチャクチャ気持ちよかった、なにこの感覚!』っていう感じに、マイナスだった針が『ギュイーン』って、反対側に行ってはね返ってきたんです。初めて、個人的な怒りの感情と、芝居の感情表現とが、つながった。それを褒めていただいたことで、成功体験になったんでしょうね」
微細な感情を表情一つで表現する「女優・永作博美」が開眼した瞬間だった。
(取材・文:鈴木利宗/ヘアメーク:住本彩/スタイリング:岡本純子/衣装:ADORE/アクセサリー:YVETTE)
【後編】「ベタベタするだけが家族じゃない」永作博美 “女優と母”両立の葛藤を経て…たどり着いた2児との“自然な距離感”へ続く
画像ページ >【写真あり】『時すでにおスシ!?』お寿司を握る永作博美さん(他2枚)
