“推し”の急逝を機に、44歳から韓国語勉強→51歳で字幕監修者になった女性「やりたいと思ったら、どんどんやっていい」
画像を見る 6月30日で十五回忌を迎えたパク・ヨンハ

 

■ヨンハが逝く夜も、私はヨンハに救われた――。感謝と罪悪感を胸に、韓国語学習の道へ

 

ヨンハといえば『冬のソナタ』が出世作だが、花岡さんの韓国ドラマとの出合いは、冬ソナブームからしばらく後。レンタルビデオ店でたまたま手に取った『初恋』が韓国ドラマデビュー作だった。

 

「若いころのペ・ヨンジュンも出演していました。貧富の差の描写など日本のドラマにはない濃密さがあり、人間の本質を真っ向から描いているところに大きな衝撃を受けました」

 

そこからのめり込むように韓国ドラマにハマり、ヨンハのファンとなった。

 

「何がきっかけで好きになったのかは、正直、思い出せないんです。気づいたら恋に落ちていた、そんな感じで(笑)」

 

俳優としてだけでなく、歌手としての才能にもほれ込んだ。

 

「優しさと哀愁が同居するヨンハの歌声に癒され、励まされました。どこか寂しげな声が、自分の心情にピッタリだったのだと思います。気持ちが楽になるというよりも、寄り添ってくれるような気がしていました」

 

いつかコンサートに行きたい。そう思っていた矢先、あの日は突然訪れた。

 

「朝起きてテレビをつけたら、ヨンハが亡くなったというニュースが飛び込んできました。あまりのショックで、その後の記憶はないのですが、大学生になっていた長男が慌てて帰宅し、『お母さんが死んでいるんじゃないかと本当に心配だった』と真顔で言われたことは、いまでも忘れられません。

 

実はヨンハが自ら命を絶ったその夜も、生きることに疲れ切っていました。『もう1曲、ヨンハの曲を聴き終わるまでは息をしよう』と何回も何回も聴いて耐え忍んで、夜明け近くになってようやく眠りについたんです。

 

そうして生き延びた朝、ヨンハの訃報が流れてきたんです。私は、ヨンハに救われたと思いました」

 

ただ、自分がヨンハに救われていたとき、彼自身は苦しんでいたことに対する申し訳なさも芽生えた。入り交じった気持ちを、なんとしても、ヨンハの墓前で直接伝えたいと思った。

 

そのためには韓国語を話せるようにならなければならない。悲しみに暮れる自分の背中を押してくれたのも、やはりヨンハだった。

 

そして、この悲劇は人生を大きく変えるきっかけとなった。

 

まず、家の近所の韓国語教室に通い、ハングルを学ぶことから始めた。すると、うつ状態でも、韓国語の音に癒される自分がいた。

 

「勉強が面白いというよりも、音そのものを聞いているだけで気持ちよかった。少しずつ文章が読めるようになってくると、学習も楽しくなっていきました」

 

あえて高い目標を掲げることなく、無理しないようにすることで、不思議と学習意欲が湧いた。

 

「音楽やドラマの観賞でもいいから、1分でも韓国語に触れたら勉強したことにする。それだけ決めて、毎日続けました。とにかく、継続から生まれる自信が何よりも大事だと感じるようになりました」

 

もともと韓国嫌いだった夫は、ドラマを見ているだけで「また韓国か!」と嫌みを言った。家計をやりくりして教科書を買い、夫に隠れて勉強を続けていたとき、ある一冊の本に出合った。

 

「そこには、“自分に許可を出しなさい”と書かれていたんです。当時の私にとって、まさに目からウロコでした」

 

学生時代は自分のやりたいことを素直にやっていたのに、主婦になってからは自分の気持ちにブレーキをかけるように生きてきた。

 

「でも、本当はやりたいと思ったら、どんどんやっていいんだと気付かされたんです」

 

(取材・文:服部広子)

 

【後編】44歳の専業主婦、パク・ヨンハの急逝で韓国語を勉強→51歳で字幕監修者に「自分で稼いだお金で墓参りできたことは、私にとって大きな意味がありました」へ続く

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