「先日、友人とお茶した帰りに『また会おうね』と言ったら、『うん、誘ってね』と返事をされたんです。その言葉がどうしても引っかかってしまって……」
そう話すのは都内在住の主婦・岩本香代子さん(仮名・45歳)。友人はあいさつ代わりに軽く発したのだろうが、“誘うのはあなたで、会うかどうかを決めるのは誘われた私”と言われた気がして、モヤモヤした気持ちがおさまらないという。さらにそれ以来、人と会う約束をするたびに、どちらから誘ったかを意識するようになってしまったとも。
「考えすぎと言われればそうですが、彼女が上から目線で私に接しているようにも思えてきて。人づきあいって難しいですね……」
じつは、香代子さんのように“どちらが誘ったか”を気にし始めたのを機に、深刻な悩みへと発展するケースは少なくないという。元・銀座クラブのホステスで、女性特有の人間関係にも詳しい心理カウンセラーの塚越友子さんに話をうかがった。
「島国である日本では、協調性をもち、人とうまくやることが美徳とされてきました。ゆえに、『友達100人できるかな』という歌も、“できたらいいね”ではなく、“できないと失格”と翻訳されがちなんです。つまり、友達が多くてみんなから好かれる人は、集団の中で価値があるという構図ができあがっていて、最近はSNSの普及により、さらにクローズアップされているように思います。その、好かれていることのバロメーターとして、『誘われる側が上』で『誘う側が下』という暗黙の了解のような価値観は確かに存在し、蔓延していると感じますね」(塚越さん)
塚越さんがカテゴリー化する「誘われる人」「誘う人」のタイプは大きく分けて、「誘い誘われる人」「誘ってばかりで誘われない人」「誘わないけど誘われる人」「誘えないし誘われない人」の4つ。
悩む人が多いのはもちろん、「誘ってばかりで誘われない」「誘えないし誘われない」の2タイプだ。ここでは、「誘ってばかりで誘われない」人のエピソードを例に、塚越さんが解決法を教えてくれた。
■誘うのをやめたら、見事に誰からも誘われなくなって……(58歳・主婦・独立済みの子どもあり)
ある日、気づいてしまったんです。「あれ、私ばかりが誘っている」って。思い返せば、友人たちにはみんな、私から声をかけて会っていました。そのたび「また会おう」と盛り上がるけれど、私以外の誰かが動いて“次”が実現したためしはなく……。
私はみんなに会いたいから誘っていました。でも、誰も私を誘わないのは、要は私に会いたいと思っていないからなのでしょう。急にはずかしくなってきて、自分から誘うのをやめてみたら……案の定、誰からもお誘いはなく半年がたとうとしています。今は寂しさと悲しさでうつうつした気持ちで過ごす日々。「会いたい」と思われない私には、いったい何が足りなかったのでしょうか。
「自分が誘ってばかりのその相手は、本当に誘う必要のある人ですか? 一度、冷静な目で自身の交友関係を観察することをおすすめします。モノの断捨離と一緒で、友人としてときめく人、そうでない人に振り分けてみる――そのうえで、ときめかない(悩んで苦しくなる、心地よい関係を築けない)相手に対して、『今後も関係を維持するべきなのか』を考えてみましょう。“数撃ちゃ当たる”発想を捨て、本当に会いたいと思える人だけを誘うべきです」(塚越さん・以下同)
■「どちらが誘ったか」に異様にこだわってしまいます(45歳・主婦・子ども2人)
以前、自分から誘うのをやめて相手の出方を見ようと“誘い断ち”を試みた私。しかし、そのまま連絡が途絶えた経験から、「誘われるのは魅力があるからで、人として上。誘って会ってもらう側は下」だと痛感しました。
以来、どうやったら自分が誘われる側になれるのか、そればかり考えてしまいます。街で女性どうしが連れ立っているのを見ると、「どちらがどう誘ったのか」を知りたくてたまらなくなるし、新たに知り合った人から誘われると「勝った」気がして、手帳に書いてしまうほど。ダメな人だと思われたくなくて、周囲に誘われた話ばかりをしてしまいます。重症だと自覚していますが、この価値観をどうしても捨てられません。
「“自分から誘って会う”行為の奥にある、自分が本当に満たしたい欲求を探ってみましょう。ちやほやされたい=承認欲求を満たしたいのであれば、得意なことをSNSにアップしてみる、集団の中にいたい=居場所が欲しいのであれば、習い事や追っかけを始めてみるなど、欲求の解消を身のまわりの人間関係に求めず、押しつけないことです。また、ヒマな時間が消えると、誘わなきゃ、人と会わなきゃという観念も自然と弱まってくるはずです」