1968年11月19日午前4時18分、嘉手納に大きな爆発音が響いた。未明の空を大きなキノコ雲が覆う。家屋の窓が割れ、地響きが家々を襲った。「いくさがちょーんど」。眠りに就いていた住民が逃げ惑う。ベトナムへ爆撃に向かうB52戦略爆撃機が米軍嘉手納基地からの離陸に失敗し、墜落していた。B52が搭載した爆弾が爆発し続けた。墜落地点は嘉手納基地内だったが、核兵器や毒ガスを貯蔵していたとされる知花弾薬庫まで数百メートルの場所だった。
池原吉孝さん(69)は「ベトナム戦争の報復攻撃が来た」と飛び起きた。爆発音が何度も家屋を震わせた。屋上に上って見えたキノコ雲は核爆弾を連想させた。空から降り注がれる小石や砂。どこへ逃げようか考える気もうせた。「もう終わった」。立ちすくむほかなかった。
吉田定信さん(83)も自宅屋上から同じキノコ雲を見た。放射能が降ってくる―。すぐに家族に「家から出るな」と叫んだ。爆発の振動で自宅の欄間にはめられたガラスまでが割れていた。
軍雇用員だった長嶺由弘さん(81)は避難するため、両親と車に乗り込んだ。爆発音は44年に米軍が那覇を焼き尽くした「10・10空襲」を思い出させた。サイレンや車のクラクションが夜明け前の集落に響く。「那覇へ行くか、山原へ行くか」と右往左往した。常日頃、同僚と「何かあったら怖い」と思っていた事故の発生だった。
金武村(当時)の保養施設で病気療養中だった津波古米子さん(75)は、ラジオのニュースで事故を知った。嘉手納村屋良(同)に住む母と弟を思い、バスに飛び乗った。事故があった道路は米軍によって封鎖され、遠回りを余儀なくされた。
自宅は爆風で戸袋が外れ、コンクリートには亀裂が入っていた。庭には黒く焦げた小石や砂が散らばっていた。沖縄戦を体験していた母のカメさんは避難はしなかった。米軍からの砲撃を受ける中、山中を逃げ回った凄惨(せいさん)な記憶がカメさんの脳裏をよぎった。「死ぬなら自宅で」
津波古さんは現在、屋良で暮らす。自宅の上空は今も米軍機が飛び交う。「B52の飛来も反対だった。自分たちの嘉手納からベトナムの人を殺すために飛び立つのが許せなかった」と半世紀たったいまも語気を強める。「爆音にさらされない普通の生活がしたいだけなのに」 (安富智希)
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1968年11月19日、B52戦略爆撃機が墜落した。事故は住民に戦争を想起させ、基地被害の恐怖と不安を高めた。B52の撤去を求める声は全県に広がり、70年に全機が撤退した。19日で事故から50年。しかし、今なお米軍機の墜落事故は繰り返され、広大な基地を抱える沖縄は、その懸念から抜け出せないでいる。嘉手納基地は居座り続け、負担は当時と変わらぬままだ。