慰霊碑の前で手を合わせ、事件の犠牲者を追悼する参列者=6日、伊江村 画像を見る

 

【伊江】米統治下の1948年8月6日、沖縄県の伊江島で起きた米軍弾薬処理船(LCT)爆発事件の慰霊祭(伊江村主催)が6日、村の被爆慰霊碑前で開かれた。約80人が参列し、107人の命を奪った戦後最大の爆発事件を振り返り、犠牲者に鎮魂の祈りをささげた。

 

事件は、米軍の爆弾を処理搬送する船が荷崩れを起こして爆発した。伊江島米軍LCT爆発事故連絡会によると、渡久地港から伊江港に戻ってきた連絡船の乗員や乗客、出迎えの島民ら107人が亡くなった。犠牲者の内訳は県民93人、外国人乗組員14人と推計される。負傷者は70~100人に上る。碑には今年、本部町の犠牲者2人が追加刻銘され、刻銘者数は計80人になった。

 

犠牲者の掘り起こしを続ける連絡会事務局の長嶺福信さん(71)=西原町=は「商売で来島して事件に遭い、そのまま誰にも気付かれずにいる人がいるかもしれない。遺族の意向もあるが、できるだけ犠牲者全員を刻銘し、慰霊につなげたい」と語った。

 

「事件の重み受け止めて」 体験者、凄惨な事件に心の傷深く

 

【伊江】伊江村で1948年8月6日に起きた米軍爆薬処理船爆発事件の慰霊祭が開催された6日、村郷土資料館で伊江島米軍LCT爆発事故連絡会主催の「語る会」が2年ぶりに開かれた。事件の体験者や遺族ら10人が凄惨(せいさん)な現場の状況などを振り返り、「事件を引き起こした戦争を二度と起こしてはならない」と訴えた。

 

那覇市久茂地から参加した崎濱秀雄さん(82)は当時11歳。親戚がLCTの乗組員で、時々船に乗せてもらっていた。事件当日も兄2人とLCTを訪ね、下船して約200メートル離れた時に爆発が発生。飛び散った破片が首の右に刺さった。「爆発の瞬間は覚えていない。気が付くと兄に背負われていた。診療所に着くと母が泣いていて、死ぬのかなと思った」

 

診療所で応急処置を受けて一命を取り留めた。「破片の刺さった箇所によっては命はなかったかもしれない。運が良かった」と語りつつ「首が曲がり、青春時代は(外見を気にして)落ち込んだこともあった。今でも痛みがある」と右首に手を当てる。

 

「(事件は)思い出したくない。人に伝えることでもない」と人前で語ったことはなかった。「今回話したことで少し肩の荷が下りた気もするが、それで事件の重みが軽くなるわけではない。事件をしっかりと受け止めたいという若い人がいるなら、体験を語っていきたい」と言葉を結んだ。

 

連絡会の長嶺福信さんは「当時LCTは現場監督者が不在で、(爆発の原因となった)兵士が爆弾の上に駆け上がる行為を止める者がいなかった」などと指摘。「こうした管理体制を考えると、爆発は事故ではなく事件だ」と強調した。

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