■出会って2カ月で電撃婚。「寡黙だけど一本芯が通っているから」と陽子さん
島倉千代子の『東京だョおっ母さん』がヒットした1957年、岡田彰布は大阪・玉造に誕生した。紙の加工工場を経営していた父の勇郎さん、母のサカヨさんにとって待望の第1子だった。その3年後タイガースに入団した三宅博さん(82)は当時から岡田家と深い交流があった。
「お父さんが阪神の有力後援者でしたから、甲子園や選手寮の虎風荘に岡田をよく連れてきてました」
自宅は3階建てで1階が工場、2階と3階が住居だった。屋上は野球の練習をするために、周りは金網で囲われていた。
「息子が学校から帰ってくると、お父さんは屋上で練習の相手をしていました。ただ、気管支が弱くて、よく咳をしていた。体の強くない夫を陰で支えていたのが、お母さんのサカヨさんです」(三宅さん)
妻は夫と息子のため、愚痴ひとつこぼさずに黙々と働いていた。
「練習が終わるころを見計らって、お母さんが1階から上がってきて夕飯を用意する。ワタシらが遊びに伺うと、お父さんは飲みに連れていってくれました。その間も、お母さんは工場で働いていました」
三宅さんが「無理せんといてください」と話しかけると、母親からはいつも同じ言葉が返ってきた。
「お父さんの工場で一生懸命働くことが、すべて彰布のためになる。そう思うと、なんにもつらくありません」
東京六大学野球の早慶戦に憧れた岡田は、北陽高校から早稲田大学に現役合格。4年時には主将を務め、新監督から頼まれて自ら練習メニューやメンバーを決めた。その春、早大は優勝した。
’79年秋のドラフト会議で史上最多(当時)の6球団から1位指名を受け、抽選で交渉権を得た阪神に入団。1年目に新人王を獲得し、2年目にはフル出場。4番の掛布雅之とともにチームの主軸になった。そのオフの’82年1月、後援会の新年会で陽子さんと出会った。
「主人の父の知人と私の両親が知り合いで『会ってみないか』と勧められたんです。野球に詳しくなかったのですが、父から『すごい選手だよ』と聞いて面白そうだなと。初対面の印象は“ニッポン”って感じの男性でした(笑)。寡黙だけど、どこか一本芯が通っている。それまで見てきた海外の男性とは全く違って新鮮でした。長く外国にいたので、日本的な人を求めていたのかもしれません」(陽子さん)
新年会が終わった後、2人は生演奏の聴けるスナックに行った。カップル用のソファに座った途端、岡田は眠ってしまった。
《ほんと、覚えとらん。寝てたというても、無意識やから…。妻に言わせれば「会うたびに寝ていた」ようだが、多分、一緒におっても楽やったんやろうな。波長が合った、ということじゃないか》(’08年12月10日付/デイリースポーツ)
2月の春季キャンプ中に岡田が電話で「一緒に暮らしてくれるかい?」とプロポーズ。出会って2カ月もたたない3月1日、大阪のホテル阪神で婚約会見を行った。岡田は決め手をこう語った。
「お嫁さんになる人はしっかりした人がいいと思っていました。初めて会ったとき、僕よりしっかりしてる印象で、この人なら遠征のときも家を任せられると思った」
編入先の上智大学から日本ビクターに入社し、企画室で外国文献の翻訳をしていた陽子さんは寿退社。一人息子の夫の希望もあり、新たに4階を増築した岡田の実家で彼の両親と約6年間同居した。
「サカヨさんが裏で勇郎さんを一生懸命支える姿を見て、陽子さんも影響を受けたみたいですよ」(岡田夫妻の知人)