岡田彰布監督38年ぶりの日本一へ!アレの女房・陽子夫人語る「名将と歩んだ苦闘41年」
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■英語が堪能な陽子さんは、バースの妻の友人に。バースはチームの柱へ

 

結婚翌年の’83年、陽子さんが“殊勲打”を放つ。のちに「史上最強の助っ人」と呼ばれるランディ・バースが入団したものの、オープン戦で骨折して開幕二軍スタート。一軍昇格後も出番は限られ、初ホームランはチーム19試合目の5月7日だった。バースの不振は、ある悩みに起因していた。

 

「日本になじめないリンダ夫人が『外に出たくない。アメリカに帰りたい』と毎日泣いていた。バースは帰国の決意を固めていたそうです。そこに、岡田さんが救いの手を差し伸べた。英語のできる陽子さんに『バースの奥さんの相手になってくれよ』と頼んだ。それから夫人同士で一緒に買い物に行ったり、相談に乗ったりするようになった」(阪神担当記者)

 

安堵したバースは徐々に調子を上げ、チームに欠かせない存在になる。そして、今も語り継がれる’85年を迎える。4月17日の巨人戦でバース、掛布、岡田の「バックスクリーン3連発」が飛び出し、チームは上昇気流に乗る。7月15日には、岡田家に長男が誕生。「太陽をいっぱい集めるような明るい子に」と願い、「陽集」と名付けた。

 

「岡田さんは気前のいい人で、若手や裏方さんによく奢っていました。遠征前になると、陽子さんが財布に30万円ほど入れていたそうです」(前出・阪神担当記者)

 

岡田夫妻の気配りはチームを好循環させた。同年、阪神は21年ぶりの優勝。日本シリーズでも西武を撃破して初の日本一に輝いた。

 

しかし、人生よいことばかりは続かない。翌年、父の勇郎さんが55歳で他界。’87年、チームは最下位に沈んだ。そのオフ、岡田は新居に移り住んで心機一転を誓うも、翌年のバースの退団、掛布の引退で阪神は暗黒期に突入していく。

 

岡田は2年連続で不振に終わった’93年10月5日、物心ついたころから愛し続けた阪神からクビを宣告された。その夜、岡田夫妻は懇意にしている日刊スポーツの阪神番記者とお好み焼き店で食事をした。当時は他球団へ移籍すると、指導者として古巣に戻ってこられないケースが頻繁にあった。岡田の将来を考えた番記者が引退を勧めると、陽子夫人は涙を浮かべながら反論したという。

 

《主人の“現役”というのは、もう二度とこないんですよ……》
《一球団で終わるべきだとか、日本の考え方は古いのでは。それにうちの人は幹部候補生なんて、だれにも約束されたことないんですよ!》(’94年1月30日付/日刊スポーツ)

 

ふだん、表に出ない陽子夫人が夫を差し置いて、思いの丈をぶちまけた。当時36歳の岡田は仰木彬監督の計らいもあって、オリックスに移籍。’95年にはイチローの大活躍などで優勝を果たし、この年限りで引退した。翌年からオリックスの二軍助監督兼打撃コーチを2年間務め、’98年から二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰。翌年から二軍監督を務めた。阪神の元選手で、西宮市甲子園口で居酒屋 「KENPEI」を営む中谷賢平さん(67)が振り返る。

 

「二軍で日本一になったとき、寮の虎風荘で乾杯した後の岡田から『今から店行くわ』と電話がありました。『何人で?』と聞いたら、『30人全員連れていく』って。いつも豪快なんですわ(笑)」

 

’03年、岡田は二軍監督から一軍内野守備走塁コーチになり、阪神は星野仙一監督のもとで18年ぶりの優勝を果たした。そのオフ、岡田は一軍監督に昇格。“闘将”と呼ばれた前任者と比べ、感情を表に出さない新しい指揮官に不満を述べるマスコミやファンもいた。岡田は著書でこう綴っている。

 

《おれは何も思わんかったけど、そんな言葉を聞いた嫁はんが、なんかカリカリしとったなあ。嫁はんに言わせれば、何があっても動じず、どっしり構えて表情を変えない強さが日本人の美徳でしょって……》(’09年11月発行『オリの中の虎』)

 

妻は、自分の惚れた性格を否定されたくなかったのかもしれない。同時に、夫への気遣いもあった。以前、本誌は陽子さんからこんな話を聞いている。

 

「監督1年目のシーズンは、家に戻ってきても何もしゃべらないし、食事も取らない日もよくありました。今まで一度も見たことのないような姿で、私もどんな声をかければいいのかわからなかった」

 

それでも対外的には明るく振る舞った。その当時、相手を分析するスコアラーを務めていた三宅さんが岡田の自宅に行くと、陽子さんは微笑みながらこう話したという。

 

「ウチのパパねえ、夜遅く飲んで帰ってきてもね、必ず朝の10時には机の上に三宅さんの作ってくれた書類やデータをずらっと並べてね、何か考えているの。いったい、あの人はいつ寝てるんでしょうねえ」

 

岡田は午前中に準備を済ませ、ベンチに書類を持ち込まない。スコアラーとして吉田義男、野村克也、星野仙一など8人の指揮官を支えた三宅さんは断言する。

 

「記憶力、分析力、洞察力など監督に必要な能力を比べると、岡田が一番だと思います。吉田さんは一枝修平さん、星野さんは島野育夫さんという名参謀にデータを分析させたうえで采配していました。でも、岡田は全部1人でやりますから。コーチがベンチで書類を出すと、『球場に来る前に頭に入れてこい』と怒っていました」

 

岡田は妻にも最低限の知識を求めた。

 

「主人は勉強不足をすごく嫌います。ですから私は、現役のときから毎試合テレビで観戦して、翌朝すべてのスポーツ紙に目を通しています。記者さんにも、選手やコーチの方にも『そんなんもわからんのか』とよく言っているみたいですね」(陽子さん)

 

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