香葉子さんが亡くなる1年半ほど前に訪れた公園で。最後まで家族以外には弱っていく姿を見せなかった(写真:本人提供) 画像を見る

「オフクロが亡くなった日のお昼ごろ、2人で病室にいましてね。私が一方的に思い出話を語りかけていました。最初のうちはニコニコして聞いてくれていたんですが、そのうち頷くこともできなくなって。それで『産んでくれてありがとう』と伝えたんです。そしたら、オフクロが僕の左手の上に手を重ねてくれて……」

 

その後、兄の正蔵さん(63)、姉の美どりさん(73)と泰葉さん(65)や孫たちも病室を訪れ、みんなで思い出話をしたり、香葉子さんのためにクリスマスソングを歌ったりしたという。

 

こうして家族に看取られ、海老名香葉子さんは、’25年12月24日に92歳の生涯に幕を閉じた。

 

「すごい人ですよ。旅立つ日まで選んで逝っちゃった。これから、メリークリスマスって言いながら法事をしなきゃいけない。いまでも、オフクロを思い出したいときは、自分の左手の上に右手を重ねます。そうすると、あのときの母の温もりを感じるんです」

 

香葉子さんは、東京の釣りざお職人「竿忠」の家に生まれ、家族から離れて疎開していた1945年3月10日、東京大空襲で本所(現・墨田区)の実家が焼失。当時12歳だった香葉子さんは家族6人を失い戦災孤児となった。

 

その後「竿忠」の客だった三代目 三遊亭金馬の養女となり、’52年に初代林家三平(享年54)と結婚。

 

昭和の爆笑王の妻として林家一門を支える女将さんとなる。

 

■父親のような存在で甘えられなかった

 

「オフクロには、戦後を生き抜いたっていうエネルギーがありました。私が9歳のときに、昨日まで元気だった親父が突然、肝臓がんで亡くなって。それはもう一門大変な騒ぎで、私も火葬場でパニックになったのを覚えています。

 

でもオフクロには、悲しんでいる暇なんてなかった。この家の生計を立てなければならないっていう使命で、林家一門の顔となって、講演会やテレビ番組に出演して、必死に身代を守ったんです。

 

父親がやるべきことをすべて母親がやって、母親がやるべきことを兄姉がやってくれました。だから私にとっては、オフクロは父親で、兄姉が母親的存在でした」

 

幼少期の三平さんには、母親に甘えた記憶はないという。

 

「親父が生きていたころは、住み込みのお弟子さんが10人ぐらいいて、それに家族でしょ。毎日、17人ぐらいのご飯を作らなきゃいけないんですよ。八百屋さんなんかで残り物を安く譲ってもらって、それを工夫するっていう食べ方でした。

 

それに、わが家はいつもケンカが絶えなかった。お弟子さんたちも反抗するし大変でした。

 

オフクロはケンカをとめて、お尻をたたいたり、褒めたりしながら、みんなを育てたわけです。普通の人だったら心が折れますよ。

 

つねに、みんなの中心にいて、私がオフクロに甘える隙間なんてなかった。そういう母親らしいとこを息子に見せちゃいけないと思っていたのかもしれません」

 

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