第36話 母自身が、語るボケと新作の作風
自分の親が、アルツハイマー病である、と宣告されるのは、もちろん、辛く、哀しい。自分の親の能力が、次第に奪われ、色々な事が、出来なくなる事を目の当たりにするのは、さらに、辛い。
しかし、と私は、考える。
これは、介護側の立場にいる<私>という娘のセンチメンタルな感傷なのだ。
この介護側のセンチメンタルな感傷は、かなりやっかいだ。介護される側を思いやっているようで、実は、自分の感情のみにとらわれ、自分の気持ちが、まず<はじめにありき>になっているからである。
アルツハイマー病の母にカメラを向け、映画を作るということは、そんな自分の感傷をも見つめろ、ということだ。
母が、色々と物理的に出来なくなる事は、監督の私としては、想定範囲内の事象であり、娘の私は、母の様々なエピソードに戸惑ったり、ショックを受けても、編集する段階では、監督の私が、そのことを相対化し、どのように見せるのかを冷静に考えなければならない。
それが、出来なければ、面白い映画には、ならない。
ズバリ、監督の私が、知りたい事は、アルツハイマー病の脳内で起こっていることを母が、どのように感じ、思い、日々生活しているのか、という点だ。
いつ母に、そのことを聞き出そうか。母の脳が、一番目覚めている昼寝をする前だろうか。
よし、母の引き籠りを心配して、主任ケアマネの西迫さんが、訪問してくれる時に質問をぶつけてみよう・・・
と、まあ、いつも私の頭は、この映画のことでいっぱいなんである。
2010.12.18 (土)更新予定!<動画35:アルツハイマー病の母が、語るボケ>
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