前回のエッセイでは、ペネロペ・クルスを話題に取り上げましたが、彼女の伴侶であるハビエル・バルデムがかつて主役を演じた映画に『空を飛ぶ夢』というのがあります。読者の中にもご覧になった方はいらっしゃるとは思うのですが……。
この映画は実存した人物の手記をもとに作られたのですが、自ら選択する死というテーマと、それを熱演したハビエルがとても話題になりました。
全身不随という苦しい病を背負って生き延びて行く、その苦しみやつらさよりも死を選んだ一人の男性のあり方は、この映画を見た世界中のたくさんの人々に衝撃を与えましたが、つい先日もアメリカ人女性が予告通りに『安楽死』したことがニュースになりました。まだまだ物議を醸し続けてはいるものの、ベルギーやオランダなどの安楽死を合法化させる国も表れ、世界では少しづつ、病と闘う人の『選択する死』というあり方が認識されつつあるようです。
ところで、自分の死について考える機会は、当たり前ですけれど年を取るにつれて増えていくものです。半世紀近く生きていると同年代で病に倒れて亡くなる人も出てきますし、自分たちの親も当然高齢化しているから、日常生活において『死』というものを意識する頻度が多くなるのは必至です。
でも、その捉え方も、若いときのような死への抵抗力よりも、人間である以上毅然と受け入れるべきものとして、極めて現実的になってきているのも確かです。
特に私のように、年に何回も長距離を飛行機で移動する人間は、万が一のことがあっても周りが混乱しないように、しっかり遺書を準備しておかなければと考えたり、家族にもそれとなしに死んでしまった場合のために、その後の対処を仄めかす会話をすることもあります。言い始めた当初は「何言ってるの、縁起でもない!」と萎縮されていたものですが、最近は過剰な拒絶反応もなく「わかってます」と対応されるようになりました。
自らの死を覚悟した話題を振るからといって、別に自分の死が差し迫っていると感じているわけではないのですが、かつて車で大事故を起こし瀕死の状態を経験した立場としては、いつ何時どんなことがあってもおかしくないということを、冷静に考えているところがあります。
そう、今の自分にとっての『死』は、若い頃のように自分を軸に捉えたものではなく、明らかに残される周りの人々への慮(おもんばか)りが重心になっているのです。
今回安楽死をしたアメリカ人女性も、脳に腫瘍ができたことで自らの意識のコントロールを出来なくなる恐ろしさと、それに苦しむ自分の姿と接していかなければならない結婚したばかりのご主人への配慮などが、死という決意に至ったと思うのですが、これについてはやはり皆それぞれの考え方や倫理観がありますから、賛否両論を免れられないのも現実です。
病気でボロボロになっても、出来るだけ最期まで愛する人には生きていてほしいと思うか、または愛するからこそ、苦しみから解かれて楽になってもらいたいか。もし私が彼女の立場だったらどうするか……。