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10月某日 東京

 

私はイタリアに住んでいた27歳の時、それまで10年間付き合ってきた詩人の男性との間に子供ができて、未婚で出産をしました。それを機に、経済的に私を頼りきっていたその男性とは別れ、私は一人で子供を育てる決意をして日本へいったん帰国。未だに忘れられないのは、小さな家族をひとり増やして実家に戻ったときの母のひとこと。

 

「孫の代までは私の責任だ!」

 

母はその思いがけない顛末にとても嬉しそうでしたし、それから数年後に私と息子が再び海外移住する日まで、子育てには沢山手を借してくれました。いくつもの仕事を抱えて忙しい私のかわりに、オーケストラを退職してバイオリンを教えていた母は、いつも小さな孫を腕に抱えながらレッスンをしていたのを覚えています。様々なエッセイで私はそんな母の生き様や、彼女のちょっと変わった子育ての姿勢などを綴ってきました。

 

私が幼い頃、音楽家だった母は多忙でした。祝日休日であってもコンサートはありますから、子供と一緒に過ごすことはなかなか叶いません。なので、母はどうしても私たちと過ごしたいときは、彼女自ら学校に電話をかけて、娘たちを休ませます。学校も母の意向をいつも率直に受け入れてくれていたので、私には母と一緒に、当時暮らしていた北海道の様々な場所を訪れた記憶がたくさん残っています。

 

普段、母は音楽のことで頭がいっぱいに見えるし、全く教育熱心ではないし、コンサートの日には子供たちを夜遅くまで留守番させます。端から見れば放任主義を極めていたように見えていたと思うのですが、私たちはそんな母ではあっても、時間が許す限り、彼女が社会よりも家族を優先していたことがはっきり判っていました。

 

14歳で私が欧州ひとり旅に出された時も、母は自分の責任下でその旅を決めさせた事情を学校に説明して納得してもらっていましたし、17歳でイタリアへ留学する時も、当時通っていた学校の校長に休学を告げる際、「娘の判断には私が責任を持ちます」という主旨のことをはっきり言っていました。

 

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「あなたを自由にさせている私の責任と義務」と口にした母

今でも忘れられないのは、15歳でパンク文化にはまり、私は夜な夜なロンドン系の音楽がかかるディスコへ通っていたときのこと。ある日、同級生の友達3人と一緒に夜中の街で補導されてしまったことがありました。

 

私以外はみな親に内緒でこっそり家を出てきていたので、夜中であるにもかかわらず家に連絡をされ、大変なことになってしまいました。そんな中、私の母だけはすんなり私たちが保護されている派出所までやってきて、「申し訳ありません」と深く謝ったあと「でもうちは夜の外出を許していましたから」と言って、私をさっさと連れ帰ったのです。もちろん警官にはがみがみ言われましたから、家へ戻る車の中で「私がいくらあなたを信用していても、あなたの気持ちがいくら大人でも、世間ではそれを認めてくれていないということを、しっかり心しておけ」というようなことを言われたのを覚えています。

 

その数日後、母は私と一緒に補導された同級生の親たちにも謝罪をしなければいけなくなりました。その夜の外出は、私が友人たちを焚き付けてディスコに連れて行った、ということになってしまったからです。でも別段母はそれを必要以上に苦にしている感じでもなく、そんな顛末になってしまって落ち込んでいる私に向かって「あなたを自由にさせている私の責任と義務」と口にしていました。

 

昭和一桁生まれの母は戦後の混乱期を経て、親(私の祖父母)にほとんど勘当されつつも音楽家として自立。そして結婚して間もなく夫に先立たれ、子供ふたりを女手ひとつで育ててくるに至って、様々な経験を積み重ねてきているので、かなり肝が座っている人ではありました。その彼女が親としての責任感を全身全霊で起動させる姿に、自分たち子供が決して見放されることのない、確実な信頼と愛情を感じていたのは確かです。

 

私は17歳で自立してしまったので、それ以降は移住地のイタリアで何があっても、どんなとんでもないことが起こっても、全てひとりで解決していかなければならなかったわけですが、30歳近くなって結婚もせず子供を産んで連れて戻って来たときの「孫の代まで私の責任だ」という母の言葉に、精神的に疲弊し、お金も仕事もないまま日本に戻ってきた私が、どれだけ救われたか知れません。

 

今回日本に戻ってきてすぐ、ものまねタレントの清水アキラさんの息子の不祥事報道を知ったのですが、それに対して親が謝罪をするのはどうなのか、という意見をいくつか目にしました。

 

ただでさえ、一般人は芸能人に夢や希望という良い心地を提供してもらいたいと思っているわけですから、自分たちの理想と少しでも外れた行動を起こされた時の、その落胆には容赦がありません。あの人があんなことするとは思っていなかった、裏切られた、という嫌な気持ちを、事件を起こした当事者と、2世であれば彼らを育てた親にも向けられます。

 

つまり芸能界で働く人たちは、常に世間に対して彼らのイメージを崩さないための責任を、しっかり背負って生きていくことが望まれています。一般人と違って、2世の親御さんが表に現れ、自分の子供の不祥事を、例え彼らが立派な大人であっても親の立場として謝罪をするのは、そういった特殊な立場を考えると、ある意味必至の行動とも言えるかもしれません。

 

そしてそこには、動揺、怒り、辛さの中で、自分の子供を純粋に家族として守ろうとしている強い気持ちがあらわれているようにも思えるのです。それは、今回の清水さんに限らず、2世芸能人の報道で親が謝っている会見を見る度に感じる事です。

 

いくら自立はしていても、どんなに大人になっても、人々のメンタルのバランスというのは、やはり家族というバックグラウンドによるところが大きいのは確かです。世間の人々は「みっともない、親が謝ることじゃない」と感じながらも、実はどこかで子供をどうしても突き放すことのできない“親の思い”や“親の責任”を、テレビ画面を通じて確かめたいと思っているのではないでしょうか。

 

何はともあれ不祥事を起こした当事者は、自分の親が世間のバッシングを全て受け止めて、自分たち子供を懸命に守ろうとしているのだということを、心底から痛感してほしいなと、自分の過去の経験を踏まえつつしみじみ思った次第です。

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