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11月某日 東京

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされるキリストを描いた「サルバトール・ムンディ」(救世主)が、先日ニューヨークで競売に掛けられ、絵画としては史上最高価格となる508億円で落札されたそうです。落札者は明らかにされていないそうですが、この66センチ×46センチという決して大きくもない油絵のために、18分間に及んだという入札合戦はさぞかし凄まじかったことでしょう。

 

あまりにこの作品の複製が多いために、本当にダ・ヴィンチの作品なのかどうかという点も含めて、この作品はこれまでにも様々な物議を醸してきたようですが、なんせこの画家は生存中にたった20点程しか油絵を描いていません。それもあってのこの高値だったのでしょうけれど、508億円……まったくリアリティのない価格です。

 

508億円があれば、いったい何が買えるのか調べてみたところ、東京のスカイツリーの建設費が400億円だったそうですから、それでもまだ108億円余るという計算になります。2012年に米ソフトウェア・オラクルの創業者でスティーブ・ジョブズの友人でもあったラリー・エリソンCEOは、ハワイで6番目の面積を誇るラナイ島の98%を購入しましたが、合意価格は478億円。スカイツリーもハワイの島も現実味がなさ過ぎてさっぱり価値観としての実感が涌いてきませんが、とにかくB4の紙を2枚繋げたよりも小さなサイズの板に描かれた油絵としては、とんでもない落札価格だった、ということだけは判ります。

 

「サルバドール・ムンディ」は1500年代に当時のダ・ヴィンチの滞在先であるミラノで個人宛に描かれ、その後フランスの修道院に収蔵、イギリス王チャールズ1世のコレクションという経緯をたどり、長い行方不明期間を経て2011年にニューヨークで発見されます。その後専門家の調査によってやっとダ・ヴィンチのオリジナルであるということが実証され、ウォールストリート・ジャーナルによってその価格は2億ドル(今回の落札価格の約半分)と推定されました。ダ・ヴィンチは活躍期間中も人気芸術家だったので、この人に某かの創作を依頼するとなると当時も既に莫大なお金が掛かりましたが、それにしても500年後になってから508億円という値段が自分の作品に付けられるとは、ダ・ヴィンチ本人も想像すらしていなかったことでしょう。

 

とはいえ、名画の落札価格が100億円越えというのはそんなに珍しいことでもなく、例えばムンクの『叫び』は140億円で落札されていますし、ピカソの名画であれば100億円越えはスタンダード。ピカソの遺産が7,500億円とも言われていますが、基本的には貧乏で野垂れ死に覚悟で挑む仕事としてのイメージが強い“絵描き”という職業の不思議さを痛感するしかありません。ピカソやダ・ヴィンチのように存命中から売れっ子でセレブだった人たちもいれば、ゴッホのように貧乏どん底の中、精神破綻で人生を終えた後に作品が何億ドルという単位でやりとりされるという、なんとも不条理な人もいるのが絵描きの世界です。

 

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開き直っていた“リアル・フランダースの犬”時代

ちなみに私も物心がついたころ、自分は将来絵描きになると母親に宣言をしたことがあります。その直後に母が取ったのは、書店で児童文学の名著「フランダースの犬」を買ってきて私に読ませる、という行動でした。まだアニメ化がされていなかった頃の話です。

 

子供の倫理観を養うため19世紀頃に沢山書かれた不条理ものの児童文学ですが、主人公はだいたい皆孤児。お爺さんに育てられていて、傍には犬がいる、というのがこの手の物語の基本構造と言えるでしょう。フランダースの犬も類いに漏れず、まさにその不条理児童文学を王道でいく作品ですが、ルーベンスという大家に憧れ、自分も絵描きになりたいという夢を抱いたまま、貧困と寒さで死んでしまう主人公と犬に涙しつつ、読者は社会の冷たさと同時に「絵描きになりたいなんて、無謀な夢を描いてもろくなことはない」という教訓を得るのでしょう。

 

しかし、私は幸いこの時同時進行で「アラビアン・ナイト」のような、ずる賢い主人公たちが出てくる本も読んでいたおかげで、ネロの正直者過ぎるがゆえの要領の悪さにはどうも同情が出来ず、自分は絵描きになってもこんなふうにはなるまい、と心にかたく誓ったものでした。

 

その後10代半ばから20代後半まで過ごしたフィレンツェでの画学生生活は貧困と苦悩を極め、“リアル・フランダースの犬”状態に陥っていましたが、私は「どうせ絵描きの暮らしなんてのは、こんなもんだ」と開き直って日々をやりくりしていたのを思い出します。多くの絵描きにとってピカソのような人は非現実であり、運が良くても死んでから売れるゴッホ、最終的には自分の作品がお金と繋がろうと繋がらなかろうと、意欲がある限りひたすら描き続けていくしかない、というのが主流の考え方だと言えるでしょう。

 

今回のダ・ヴィンチの絵がどこのだれに落札されたのかは判りませんが(巷ではロシアの大金持ちという噂もあり)、昨今のオークションでは新興国の大富豪が目玉商品の落札を果たすケースも多く、中東の石油産出国やロシア、そして中国のお金持ちの豪邸に、思いがけない名画が飾ってあったりするのかもしれません。

 

でもこうした名画の高額取引はそのほとんどが投資目的とされています。現代アートの世界では、今後価値が上がると思われる作家の作品を投資目的で購入する、というのはお金持ちに限らず一般の人もやっていることですが、たとえばルイ・ヴィトンとのコラボでも話題になった村上隆さんの作品も、20年前には20万~40万円台だったのが、今では1億円を下らないと言います。今は無名の若手アーティストであっても、いち早く目を付けて作品を購入しておくというのも、大きな可能性を秘めた立派な投資手段のひとつなのです。

 

数ヶ月前にロンドンの新鋭アーティストとオープンしたばかりの赤坂の画廊で対談をした際に、アートがもっと一般の人にも広く浸透し、ちょっとブランドのバッグや時計を買うつもりでもっと手軽に芸術作品を購入してくれる人が増えれば、貧乏でも頑張るアーティストの志気があがるのに、という話題になりました。もっともだとは思いますが、もともと芸術品を家の中に飾ったり、日頃誰かを自分たちの家に招待する、という習慣のない日本において、アートを手軽に購入する人が増えるにはまだ時間がかかりそうです。

 

それに、いくら長期目線での投資とはいえ、自分が所持している絵が数世紀後には何百億円という価格で落札されるのかと思うと、気が気じゃなくなるオーナーもいるはずです。508億円で落札された今回のダ・ヴィンチの作品が再び転売される日には、一体“おいくらまんえん”になっているのか……。

 

そんな気が遠くなることを考えても全くなんの意味もないので、気持ちを現実に引き戻し、目先の締め切りが迫った漫画原稿を頑張るとします。