妊娠中から出生後までに起こった脳の損傷により、5歳までにその後遺症として手足や体に運動障がいなどが発言する。それを総称して、脳性まひ症候群という。

 

岡山県の「旭川児童院」で暮らす佐藤直美さんは、2歳で脳性まひと診断された。長く生きられないことも多いという脳性まひの患者。だが、それから約半生紀。直美さんは今年で52歳になる。

 

母親の恵美子さん(73)によると、直美さんは1歳の村祭りの日にひきつけを起こし、40度近い熱をだした。恵美子さんは娘を病院に連れていったのだが、原因はわからずじまい。その後、岡山大学病院で「重度の脳性まひです。今の医学で、治すことはできません。娘さんはおそらく、20歳まで生きられないでしょう」という宣告を受けた。

 

「その後、どうやって帰りついたかは覚えとらん。家に入った瞬間、泣き崩れてしまったのよ。泣いて、泣いて、泣き続けるうちに、直美と一緒に死ぬ決心をしとった」(恵美子さん・以下同)

 

部屋をきれいに片付け、直美さんを抱いて家を出ると、当時単身赴任をしていた夫・一男さんの仕事場へ。尋常ならざる様子に驚いた夫は、妻子を近くの自然公園へ連れ出した。

 

「直美にアイスをやりながら話をしていると、突然、公園に住んでる猿がやってきて、アイスを奪い去ったんよ。その瞬間、直美が『キャーッ』と叫んで、それは楽しそうに笑ったんじゃ。そこで私は我にかえった。この子には感情がちゃんとある。生きている。そんな娘を、私の勝手で死なせるわけにはいかん」

 

そして始まった奮闘の日々。診断が誤診かもしれないと、ほうぼうの病院を回った。あらゆる民間療法を試し、夫の給料のほとんどを注ぎ込んだ。でも、結果はいつも同じ。当時(昭和30年代)は「障がい児への理解が皆無」の時代だった。ひどい差別をたくさん受けた。そんな出口の見えないある日、恵美子さんに、ひとりの女性医師が重度障がい児の施設「旭川荘」の存在を教えてくれた。

 

「ワラにもすがる思いで出かけていった旭川荘で、足の不自由な子供たちが、楽しそうに遊び回っている光景に出合いました。私はその時初めて、直美以外の障がい児を見たんよ。障がいがあっても、この子たちはこんなに幸せそうに生きとる。直美も直美らしく、幸せになったらいいんや。その瞬間、生きる力がふつふつと湧いてきたんよ」

 

すぐに旭川荘への通院を始め、4年後には完成したばかりの重度障がい児専用施設「旭川児童院」に入所。恵美子さんは児童院の家族会を立ち上げ、以来数十年にわたって、障がい児を守る活動に取り組んでいる。約50年も、恵美子さんが頑張り続けた理由。それはとても、シンプルなものだった。

 

「私はね、直美が可愛くて可愛くて、仕方がないんですよ。毎日何度も『可愛い』と言うもんじゃから、職員さんには『もう51歳ですよ』とからかわれますが、私には愛しい小さな子供にしか見えんのです。この子なりに一生懸命生きている姿を見ていると、どんなことも乗り越えていけると思えたんよ。強くなれたのも、頑張ってこれたのも、みぃんな直美がおってくれたおかげなんじゃ」

 

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