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「被害を誰かに打ち明けたときに、『抵抗できたはず』『どうして周りに相談しなかったの?』などと言われると、〈私が悪かったんだ〉と、自分を責め続けてしまいます。そのことは、親から性虐待を受けたという事実以上に、被害者を苦しめます」

 

そう話す宮本ゆかりさん(49)。香川県高松市在住の宮本さんは4歳から中学2年生まで、実父から“性虐待”を受けていた。

 

自分と同じような被害者を出したくない。そんな思いから、’17年にブログで実名を公表し、自ら受けた性虐待とそのトラウマ(心的外傷)を克服してきた体験を公開。性虐待を受けている被害者から、メールで相談を受けている。

 

今年3月、この活動が新聞で紹介されると、相談メールが月に20件も寄せられるようになった。ゆかりさんの本業は美容師で、美容院を経営している。相談は、すべてボランティア。相談メールに返信するのは、深夜になることもある。それでも対応するのは、“性虐待”を受けた被害者の心理が、あまりにも社会に理解されていないからだ。

 

今年に入ってからも、19歳の実の娘に性虐待を続けていた父親に対し、名古屋地方裁判所岡崎支部は、無罪判決を下した。裁判官は「抵抗できないほどの暴力や、心理的極限状況に追い込まれていたわけではない」と判断した。

 

「幼いころから性虐待を受けていたら『抵抗してもムダ』という気持ちになるんです。しかも、彼女には2人の弟がいた。父の性虐待が世間に知られて仕事を失ったら、弟たちが生活できなくなると心配していたといいます。なぜ、そういう被害者の心理が理解できないのでしょうか」

 

’17年7月、110年ぶりに性犯罪に関する刑法が厳罰化された。しかし、多くの問題が残っている。抵抗できないほどの暴力や脅迫があったと証明できないと罪に問われないなど、被害者側にとって立件のハードルが高いままだ。

 

ゆかりさんは、ときに相談者に会って話を聞くこともある。

 

「私に寄せられる相談の9割が、父からの性虐待を母に相談したとき、『見て見ぬふりをされた』ことが心の傷になっています」

 

母親の対応も、被害者のトラウマを深くする。ゆかりさん自身もそうだった。

 

「私も、母親が全力で守ってくれていたら、40年近く苦しまなくてすんだかもしれません」

 

ゆかりさんは1970年、香川県高松市に生まれた。父は、地元の有名企業に勤める会社員。母は、専業主婦だった。父から受けた性虐待で、もっとも古い記憶は4歳ごろのもの。

 

「母が留守のとき、父はじゃんけんゲームをしてくれました。私が勝ったらおやつをもらえて、父が勝ったら私の股間をなめるんです。くすぐったくて嫌だったけど、お菓子がもらえるからがまんしていました。母には言うな、と言われていました」

 

さらに、ゆかりさんが小学生になると、父はゆかりさんを海や山に連れていき、裸の写真を撮った。

 

「『子どもの裸はけがれなくてきれいだから』と。私が嫌がっても父は聞いてくれません。母も、その場にいたけど、『撮ってもらいなさい』と父の味方でした」

 

父は、ゆかりさんが言うことを聞かないと、すぐに怒鳴ったり、ときには体罰を加えたりした。父の暴力は、母にも向けられた。

 

「父は、私が言うことを聞かないと、『おまえの育て方が悪い』と言って、すぐに母を怒鳴るんです。だから母は、泣きじゃくる私のお尻を自分も泣きながらたたいたり、火を消してまだ熱いマッチ棒を、私の手に押し付けたりしたこともあります」

 

子どもながらに、<母は、どうして父の言いなりなのか。母のような自立できない女性になりたくない>って思っていたんです」

 

ゆかりさんが小学5年生になるころには、父の性虐待はエスカレートしていった。

 

「私が眠っていると、父は寝室にそっと入ってきて下腹部などを触るようになりました」

 

そして、幼い体をなめ回した。間もなく父は、性器まで挿入してくるようになる。

 

「当時は、まだ小学生ですから、その行為が何を意味するのかわかりません。でも、『絶対、お母さんには言うな』って言われて。すごく嫌だったけど、従っていれば、いつもは怖い父が優しかった。私は、父に自分を差し出すことで、居場所を確保していたんです」

 

父がしてくる行為を、<おかしい>と感じたゆかりさんは、何度も父に、「これは間違ったことじゃないの?」と尋ねたが、「ほかの家でもよくあることだ」と言われ、どうすることもできなかった。

 

しかし、中学2年生の保健体育の授業で、男女の体の違いを学んだゆかりさん。父からされてきたことは、子どもをつくる行為ではないか、と気づく。

 

「それまで、私は父親とどこまでのことをしているのか、よくわかりませんでした。でも、取り返しのつかないことをしたのかも、と思うとパニックになって……」

 

父に抱いていた“不信感”が激しい憎悪と侮蔑に変わった。

 

「初めてハッキリ父に『やめて!』と言いました。それでも父は、何度も部屋に忍び込んでくる。でも、私が激しく怒鳴ったら諦めるようになりました」

 

こうして、約10年にわたる父からの性虐待に終止符が打たれた。

 

しかし、ゆかりさんにとって、ここからが本当の地獄の始まりだった。

 

「この世から消えてしまいたかった。行為の意味を知らなかったとはいえ、私がもっと早く『やめて』と言えていたら父を止められていたはず。でも私は、自分の居場所ほしさに、父に自分を売ってしまった。だから、<抵抗しなかった私が悪いんだ>、<私はけがらわしい存在だ>と自分を責め続けたんです」

 

苦しみを抱えきれなくなり、父から受けていた性虐待のことを、母に打ち明ける決心をする。母は父と離婚して私を守ってくれると信じたかった。しかし、母の言葉は、ゆかりさんを再びどん底に突き落とす。

 

「あなたが誘ったらしいじゃない。お父さんは、あなたがかわいくって、あなたがほかの男性を誘っちゃいけないと思ったって。このことが世間にバレたら、お父さんが会社をクビになって、私たち、ご飯が食べられなくなるから黙っておくのよ」

 

ゆかりさんの心は、母の言葉によって完全に殺された。中学時代の後半は、父とも母とも口をきかなかった。

 

「死ぬことばかり考えました。ここから飛び降りよう、とか。でも、遺体を父に見られるのも嫌で。早く家から出るしかない、と」

 

高校卒業と同時に、就職先も決めず家を飛び出し、大阪に出た。紹介された美容室で雇ってもらい、美容師の道を歩むことになる。’90年、同い年の男性と、20歳で結婚。22歳で長男を、25歳で長女を出産する。

 

「子どもを持って、やっと、<この子たちのために死んだらあかん>と思えるようになりました」

 

出産を機に、家族で香川に戻ったゆかりさん。実家の近所に住んでいた。

 

「父の顔は見たくなかったけど、母には会いたくて。表面上は父とも普通に接していました。はたから見れば、仲のいい家族に見えたでしょうね」

 

しかし、31歳のとき、ゆかりさんはうつ病になってしまう。父親から受けた性虐待のトラウマが原因だった。夫婦関係にもすれ違いが生じ、離婚。先が見えない不安を抱えて、母にこう打ち明けたことがある。

 

「いまだに父の行為が頭から離れなくて、つらさから抜け出せない」

 

すると母は、初めて知ったかのようにショックを受け、涙ながらにこう言った。

 

「そんなことがあったのね。いま、お父さんは仕事で大事なプロジェクトを抱えているから、数年待って。お父さんが退職したら、別居してあなたたちと暮らすから」

 

今まで、母に何度か説明していたのに、伝わっていなかったのか。それとも、都合の悪いことは忘れてしまうのか――。

 

「でも、やっと私のことをわかってくれたんだから、信じて待とうと思ったんです」

 

うつ病を発症してから2年後、地元の美容院の店長を任されるまでに体調は回復。ゆかりさんは、いつまでも過去を引きずってはいけないと、父にも笑顔を向けられるよう努力していた。

 

「心の中は、ずっと苦しいままでした。40歳を過ぎても、私はまだ母の愛情が欲しかった。気持ちを理解してほしかったんです。父が退職したとき、改めて母に、『前に言っていたように離婚しないの?』と聞きました。そしたら、『いまさら別れる気はない』って」

 

<やはり、母から愛されていない>。そう考えると不安定になり、予定のない休日は、子どもがいないと、布団をかぶって泣いた。

 

そんなとき、運命の本と出合う。1冊は、元タカラジェンヌ・東小雪さんの著書『なかったことにしたくない 実父から性虐待を受けた私の告白』(講談社)。もう1冊は、『毒になる親』(講談社/スーザン・フォワード著)だ。

 

「本を読んで、初めて“性虐待”という言葉を知ったんです」

 

当時はまだ、“性虐待”という言葉は浸透していなかった。

 

本やネットで調べたゆかりさんは、<父がしていたことは“性虐待”だ。拒否できなかった自分が悪いんじゃない。だから人に知られても恥ずかしくない>と考えるようになる。さらに<子どもを心身ともに傷つける“毒親”は、許さなくていい。距離をとればいい>と思えるようになった。

 

「性虐待って、家庭内で起きるから実態が知られにくい。だから私も自分の体験を公表することで、その実態と被害者の気持ち伝えようと思ったんです」

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