■子は7歳で亡くなり、戦争は激しくなり……
浪曲界では当時、曲師不足が深刻だった。まだ駆け出しの祐子さんにも、あちこちから声が掛かる。新婚当初も巡業三昧だったという。
「八戸では艦砲射撃をくらったりもしたな。そうやって東北を回って帰ってきたのが3月9日。その夜だ、大空襲。うちの隣の町内まで焼けちゃった。私は三味線だけ抱えて逃げました。翌日、浅草に様子を見に行ったら、いまの松屋の横のとこで、みんなズラーっと並んで死んでたよ」
大空襲を機に埼玉・深谷に疎開。そのまま、深谷で終戦を迎えた夫妻は戦後、4人の子宝に恵まれた。祐子さんは子育てをしながら、曲師を続けていく。50年代になっても、浪曲人気は続いていた。
「そしたら、末の男の子が3つになると歌い始めてね。家に来ていた浪花家興行社の人が息子の歌を聴いて、『演芸場に出ないか』って」
三男・満さんには、親譲りの音楽の才能があったようだ。
「それで4歳のとき、浅草六区にあった松竹演芸場で歌わせた。すると今度は、それを聴いた人が『日比谷公会堂に出てくれ』って。当時、ロカビリーってのがはやったんです。満もギターを持ってね。弾けませんよ、リズムだけね。『ダイアナ』とか歌いましたね。『豆歌手』と呼ばれサインをせがまれるように。周囲からは『いいドル箱ができたね』なんて言われました」
しかし、幸せは続かなかった。満さんが小児がんを罹患してしまうのだ。医師からは「長くて2年」と、無情な余命宣告まで。祐子さんは息子のため、曲師を廃業した。
「泣きながら看病する私に、息子が言うんです。『お母さん、どうして泣くの。僕も頑張るから、お母さんも頑張ろう』って。もう、胸が張り裂けそうでした」
「医者代を稼ぐため」安定した職を求め、祐子さんは東京・新宿で家政婦に。夫も東京に仕事を見つけ、一家は東京に転居。しかし、満さんは7歳で早世してしまう。
「生きてたら、いまもう60代ですよ。満のこと、忘れたことありません。いま、私がこうして元気でいられるのも、息子が見守ってくれているからと、そう思ってます」
その後、祐子さんは離婚と再婚を経て再び舞台に上がることになる。天国の満さんは、99歳まで活躍を続ける母の姿を見ていることだろうーー。