■実母の消息が判明。お墓の脇にあった小石を自室に。笑顔の写真は航一さんを見守って
「未就学児ですが、いいですか?」
本来なら、非行に走る子どもを対象にする専門里親制度に登録していた航一さんの父・美光さんだったが、児相から最初に里親になることを相談されたのは、予想外の幼い子ども。「どうする?」という美光さんに、みどりさんは迷うことなく「小さい子なら、かわいいに決まっとるたい」と受け入れを決断した。その子どもが航一さんだった。
「私が行くと、親元に帰れると思って下駄箱から靴を持ってくるんです」
児相の職員から一次保護施設にいる航一さんの様子を聞くと、宮津さん夫妻は切なくなった。くるくるの天然パーマが印象的な航一さんの耳元で、美光さんは「もう心配いらんけんね」と優しく包み込んだ。
美光さん夫妻の愛情に包まれ、航一さんは伸び伸びと育っていった。
美光さんはお好み焼き店を’10年に閉じて、’11年に開設したファミリーホームの運営に専念することに。
そんななか、航一さんが小学校低学年のときに、偶然にも遠い親戚が見つかり、生まれの一端が判明したのだ。
航一さんを「赤ちゃんポスト」に託した親族のプライバシーもあるため詳述できないが、生みの母親は東日本出身で、航一さんを産んですぐに、交通事故で亡くなったという。
残念ながら実母と対面することはかなわないが、決して実母が航一さんを手放したわけではなかったこともわかったのだ。
「間もなく実母の墓も判明して、父に伴われ、お参りをすることになったんです」
九州から東日本へ、乗り物を乗り継いだ。航一さんが美光さんの膝の上でぐっすり寝てしまったころ、車窓の風景はのどかな地方都市のものに変わっていた。
駅前でレンタカーを借りて、菩提寺を訪ねた。「もしかしたら、お母さんもここを走ったかもしれないな」「ここで買い物していたんだろうな」と、航一さんはかすかに残る実母の足跡をたどった。
「お墓は遠いところでしょっちゅう行けないから、その分、お父さんは何本も線香を買ってくれたんです」(航一さん)
せめてもの供養にと「宮津のお父さん、お母さんの子として元気で暮らしています。心配しないでね」と実母に宛てた手紙を墓前で燃やした。灰になった手紙は、やがて風に吹かれ、天国の母の元に舞い上がっていった。
「それまでのボクは、実の母を感じられるものは何もありませんでした。でも、お墓の脇にあった小石を持ち帰り、半分は地元の教会の納骨堂に、半分は自分の部屋に置いています。母の形見みたいなものです」(航一さん)
児相が実母の職場の友人を探してくれ、3枚だけ残っていた実母の写真も入手できた。現在は航一さんの部屋に飾ってあり、笑顔の実母に見守られている。
「“やさしそうだな”というのが最初の印象。天然パーマなのも、ボクにそっくり。人に聞くと、目元が似ているようです。それまで、とくに生い立ちを意識することはありませんでしたが、お墓参りをして、心に欠けていたピースが埋まっていくような感じがしました」