「街の人情伝えます」現役91歳 かあちゃん記者、疾走る
画像を見る ペンと手帳を手に取材に熱中するうちにトレードマークの杖の存在も忘れてしまう涌井さん

 

■地域のみんなで助け合って生活していくことの大切さを取材を通じて教わった

 

夫の急逝を受け、ローカル紙の記者となった涌井さんには、この丸山さんのような地域の支援者、ファンが徐々に増えていった。

 

「人に会うのは、このとおり、私は話し好き、人好きだから、ぜんぜん苦にならなかったんです。

 

そのうち、方々から『こんなイベントをやるから取材に来てよ』と声がかかるようになったり」

 

いちばん苦労したのは、編集作業だったという。

 

「特に、新聞紙面の割り付け、レイアウトというのは、多くの決まり事があって独特なんです。これだけは、主人の記者仲間の方たちに教わって習得しました」

 

とはいえ、記者と4人姉妹の母親という二足のわらじ生活は「いつもギリギリでした」とふり返る。

 

「末っ子は、まだ小学1年生になったばかり。

 

そもそも主人の後を継ぐときにいちばん悩んだのが、家計のこと。新たに就職しても大変だろうし、新聞を続けてもやっぱり大変。でも、同じ貧乏をするなら、父親の仕事を継いだほうが、子供たちも頑張っている母親の背中を見てくれるんじゃないだろうかと思ったんです。何が必死かって、食べさせることでしたね」

 

夕飯の時間だけは、なるべく取材を入れずに、台所に立った。

 

「でも、ろくなものを作ってなかったと思います。子供たちには申し訳ない。塾に通わせる余裕なんて、ないですよ。だから、私の母親としての口癖は、『教室で先生が話すことを、しっかり覚えてくるんだよ』でした」

 

どうしても夕方以降に取材に行かねばならず、前出の証言のように、末っ子が幼いときには、おんぶして取材を続けたことも。その姿を見て、相手は言った。

 

「かあちゃん記者が、子連れで来たか」

 

その言葉の温かさに救われたと、涌井さんは言う。

 

「今のSNS時代なら、なんと言われたか。日本中の誰もが豊かさを目指して頑張り、助け合っていこうという思いやりが、かろうじて残っていた時代でしたね。

 

娘もまた、私が取材するかたわらでお絵描きしたり、メモ用紙をビリビリ破ったりしながら、おとなしく待っていました。働く母親の苦労を、子供ながらわかっていたのでしょうか」

 

夕方の取材に出なければならないときは、近所の住人たちが「娘さん、うちに置いておけば」と気軽に声をかけてくれた。

 

「私は4人の娘を一人で育てたんじゃない。地域の人たちに育ててもらったという感謝の思いがあって、だから恩返ししたい、地域に貢献したいとの思いで、中野で取材を続けました」

 

その後は4姉妹も成長し、’10年には1千号記念号も発刊するなど順調に進んでいたが、’20年1月、涌井さんを突然の事故が襲う。

 

「野方商店街の新年会の取材をした帰り道で、会場を出た途端にしりもちをついたと思ったら、動けなくなって。みなさんに助けられて病院に運ばれたら、大腿骨の付け根の骨折でした」

 

入院中、いつも考えていたのは、一日も早い現場復帰だった。

 

「毎年、春には区内の多くの団体や協会の総会があります。恒例のこの催しだけは、絶対に私が取材するんだと自らに言い聞かせ、リハビリに励みました」

 

涌井さん自身は、骨折後、自転車に乗れなくなったのが、唯一の残念なことだと話す。

 

「40年間、区内の遠い場所でも自転車でしたが、杖をつくようになってバスに。でも、杖に頼っても自分の足で歩ける間は、生涯現役のつもりです」

 

91歳の今でも、取材に夢中になり区内を歩いていて、万歩計が1万歩を超える日も多いという。

 

「ですが、最近は区内を取材しているだけでも孤独死、虐待など、深刻な問題の多さを痛感します。

 

これから、私もさらに年齢を重ねて、介護の問題も出てくるでしょう。そんなとき私は、地域のみんなで助け合って生活していくことの大切さを、身に沁みて知っています。それを取材を通じて教えてくれたのが、実は下町的な人情に厚い中野という街でした」

 

世知辛い時代だからこそ、半世紀にわたり、中野という街の温もりを伝え続けてきたわずか2ページの新聞が、そこに暮らす人たちの絆やコミュニティを、より強くする存在として期待されるのだ。

 

【後編】91歳の現役記者 赤ちゃんをおんぶして取材にいそしみ、今年で40年へ続く

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