「1カップのフラワー(薄力粉)、1テーブルスプーンのシュガー」
料理研究家の平野顕子さんが英語と日本語を交えながら、材料の説明を始めた。
作るのはアメリカン・アップルパイ。それぞれ持参のエプロンをつけた生徒が6人。真剣な表情で、平野さんの説明に聞き入っている。
テーブルの上には生徒一人ひとりにレシピやパイ皿などが用意され、教室のキッチンには大きなオーブンがどーんと鎮座していた。
ここは「松之助N.Y. 東京・代官山店」から徒歩2分ほどのマンションの一室。そこで「平野顕子ベーキングサロン」が開かれていた。
「生地はサッサと混ぜないとあかんよ」
そう言いながら、生徒の手つきに目を光らせる平野さんは、京都・高倉御池と東京・代官山に「松之助」のケーキショップとお菓子教室を展開するオーナーだ。
オーナー自ら教室に立ち、生徒たちのテーブルを回り、京都弁と英語で口を出し、横から手を出し、手取り足取り教えている。
「あっ、ほら、混ぜすぎると固くなる言うたやん」
生徒に代わって、薄力粉とバターをスケッパーで手早く切るように混ぜてみせ、平野さんは、
「はい。すべからくサッサとやる」
と、ニコッと笑った。
優しい笑顔に生徒たちの緊張が解けていく。アメリカでの生活がすっかり身につき、平野さんの大きなジェスチャーはアメリカ人のようでフレンドリー。はんなりしがちな京都弁もハキハキと早口で、声も大きく口跡もいい。一緒にいるだけで楽しくなってくる。
生徒のほとんどが10年以上通っている。2002年から皆勤賞という人も。通い続ける理由を聞いてみた。
「もちろん、アップルパイが美味しいから」
「それに先生のお話が楽しくて、元気になれるんです」
6人全員が口をそろえた。
「松之助」は、日本にあるアメリカの伝統的焼き菓子店では草分け的存在だ。食品のセレクトショップ・DEAN&DELUCAで2003年からここのパイを販売している。
りんごを煮ないで生のままパイ皮に包み、焼き上げるのが特徴で、サクサクとしたパイの中にジューシーなりんごがたっぷり詰まっている。甘いものが苦手な記者も、目からウロコの美味しさだった。
フレッシュなりんごの香り、酸味、自然の甘味がそのまま口の中で優しいハーモニーを奏でる。
「アメリカのケーキといえば、甘い、大きい、えげつない色というイメージがありますやん。でも、このアップルパイはアメリカのニューイングランド地方に昔から伝わる家庭の味なんです」(平野さん)
芸能界にもファンが多く『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)では、2007年に薬師丸ひろ子がおすすめのお土産として紹介。昨年末の『マツコの知らない世界』(TBS系)でも平野さんは“アップルパイ界のゴッドマザー”として紹介され、全国の名店のパイを食べ比べたマツコに「私、これがいちばん好き」と言わしめた。
平野さんの不在時に講師を務める弟子の三並知子さんはこう話す。
「お菓子教室は月1回のクラスで、1年に12回、2年で24回ですが、季節に合わせて毎回違うお菓子を教えています」
現在、生徒数は京都・東京を合わせて約150人。薬師丸ひろ子がテレビで紹介した時は一気に400人生徒が増え、てんてこ舞いだった。
「レシピは英語表記で、英語の勉強になると始めた人もいますし、レッスン後の先生とのおしゃべりを楽しみにしている人もいます。先生は、常に前向きでパワフル。磁石のように皆を引き寄せる力があるんです」(三並さん)
将来のことで迷う生徒がいれば、
「夢は見るもんやない。実現するものよ。やってみはったら」
と、さりげなく背中を押す。
45歳で離婚、47歳でアメリカへ留学、ケーキ作りを学び、50代で店のオーナーになった平野さん。
「やってみはったら」は、平野さんの口癖。サントリー創業者・鳥井信治郎氏の言葉から得た座右の銘だ。