キャプなごみの里の入居者を抱きしめる柴田さん。「傾聴、反復、沈黙、ふれあいが大切。『大丈夫』の言葉を繰り返します」(撮影:國森康弘) 画像を見る

【前編】「終末期の高齢者を、一晩中抱きしめて…」日本初の“看取り士”が生まれるまでから続く

 

「私の夢は、すべての人が“自分は愛されている”と感じながら旅立てる社会を創ることです」

 

柴田久美子さん(72)は、強い思いで、“看取り士”の草分けとして奔走してきた。誰もが安心して、希望する最期を迎えられるように──。小さな離島から始まった“看取り”の教えは全国に広まり、今も各地で愛と命のバトンを繋いでいる。

 

■「最期は自宅で」がかなわないなんて。使命と向き合うため、人一倍“死のそば”へ

 

介護職に就いた柴田さんは、日々高齢者と接する中で、徐々にある葛藤を抱くようになっていた。

 

「『家に帰りたい』という個人の意思が汲まれず、終末期になるといや応なしに、みんな病院に運ばれてしまう。死において、尊厳が守られていないように感じて……。そんな人があまりにも多くて、とてもつらかったです」

 

そんなとき、マザー・テレサの《人生の99%が不幸でも、最期の1%が幸せならば、その人の人生は幸せなものに変わる》という言葉と出合い、ある決心をする。

 

「長年、人生を力強く生きてきた高齢者の皆さんに、一人一人、希望する最期を迎えてほしいと強く思いました。そして、幼少期に生死の境をさまよったことと、父の看取りの経験がよみがえり、人の最期の看取りに『私の使命がある』と直感したのです。 ならば、今よりも“死のそば”で向き合わなければと思い、厚生労働省に電話をかけて尋ねました。『日本でいちばん在宅死亡率が高く、病院のない離島はどこですか?』と」

 

「一人一人に尊厳のある死」を。こうして柴田さんは’98年、47歳のときに島根県の離島へ移住する。

 

しかし、現実は厳しかった。

 

「島で4年ほど介護ヘルパーとして働きました。そもそも病院のない島に限定したのは、『患者さんが運ばれる病院が島になければ、最期を看取ることができるだろう』という考えから。しかしここでも、『身寄りが本土にしかいないので、島を離れなければならない』などの理由で、本人の希望をかなえられないケースが相次ぎました。離島まで来たのに、力になれないもどかしさがありました。そこで、人生の最期を迎える人たちが島から離れることなく、故郷で終末期を過ごせる“看取りの家”を建てようと決心したんです」

 

2002年、50歳での大決断だった。しかし無情にも、この決断とほぼ同時期に、柴田さんに顎下腺がんが発覚する。

 

「流動食でしのいでいましたが、やがて『すぐに島外の病院で治療しなさい』と言われるほどに……。実際、島根医科大(当時)へ行くと、即入院・手術となったんです。 でも、私には“看取りの家”を実現することのほうが優先で、時間を無駄にしたくありませんでした。『とにかく急いで切除する手術をお願いします』と訴え、なんとか2週間で退院しました」

 

柴田さんは、身命を賭して“看取りの家”完成へ突き進んだ。

 

だが、完成間近になって、今度は母の容体が急変する。

 

「施設の完成間近でビラを配っていたころ、母が心不全で倒れたのです。『延命治療はせず、自然死で、病院で、あなたに看取ってほしい』という母の希望をかなえるため、このときばかりは準備を中断して病院に駆け付けました」

 

柴田さんは14日間病室で母の手を握り、抱きしめ、自分を産んでくれた感謝を思う存分伝えた。

 

「母は最期に、『島の高齢者さんたちを、私だと思って大切にしなさい』という言葉を遺し、私の腕の中で亡くなりました」

 

こうした母の強い思いも糧に、2002年5月、柴田さん念願の看取り施設、「なごみの里」が完成する。スタッフは看取り士が6人、ボランティアが10人。施設には柴田さんの元同僚や、彼女の看取りの考えに賛同する介護職員たちが、全国から集まった。

 

しかし、施設への風当たりは強いものだったという。

 

「最初は怪しい宗教じゃないかと疑われたり、『看取り士だなんて縁起が悪い』と名刺を破り捨てられることもしばしばありました」

 

ようやく最初の入居者を受け入れたのは、半年後のことだった。

 

「隣の島から、精神科に入院するはずだったおじいちゃんが来ました。妻に暴力をふるい、妻も腰が悪くて介護ができず、普通の施設では『手に負えない』といった様子でした。実際は、脳梗塞とぜんそくで話せず、体も思うように動かせず、そのもどかしさから手が出てしまっていたようでした」

 

柴田さんとスタッフは、全員でケアにあたった。

 

「『殿』と呼んで手厚いケアをしました(笑)。元道路の修理工の方だったので、港の工事を見るのが好きで。工事を見に連れ出したり、皆でお花見もしました。寝るときは、殿が落ち着くまで体をさすりながら一緒に寝ていました。そうした日々を過ごしていくうちに、徐々に心身が落ち着かれていったんです」

 

すると、「あんなに大切にしてもらえるのか」と施設の評判が島全体に広がっていった。やがて、入居者は5人に増えた。

 

マサさん(享年98)というおばあちゃんもその一人。脳疾患と認知症の症状で暴言や暴力が出て、入居していた施設から「なごみの里」へ移ってきた。

 

「マサさんには母の姿が重なり、すべて受け入れると決心してお世話をしました。暴言と暴力もありましたが、だんだん笑顔が訪れて、元の優しいマサさんに戻りました」

 

マサさんの最期は印象的なものだったという。

 

「『父ちゃんが優しく、もうおいでと温かい手で握ってくれた。柴田さんよ。世話になったね。わしは寝ているうちがいいな』と。その希望どおり、就寝中にひっそりと旅立たれました」

 

マサさんの旅立ちは、「人は死ぬタイミングを自ら選んでいるのかもしれない」と柴田さんたち看取り士に教えてくれたのだという。

 

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