『関東大震災』の大火災を生き延び、終戦時には3年間の『シベリア抑留』から生還。そして、昨年の『東日本大震災』に遭ったときも決して動じず、いまも避難先で元気に過ごす高齢者夫婦がいる。明治45年生まれの吉田信さん(100)と明治44年生まれの妻・ツルさん(101)だ。
2人は昨年3月12日、福島第一原発からわずか2キロの距離にある大熊町の自宅から避難。現在は長男の信雄さん(75)・恵久子さん(70)夫婦とともに、会津若松の駅に近い古びた団地の借り上げ住宅で暮らしている。震災までは父祖伝来の家屋敷で、4世代9人家族で暮らしていた。
「私の家は原発のすぐそばで、放射線の量が格段に高い。だから現実には帰れないんでしょう。10年やそこらじゃ放射能は減らないそうですよ。先祖代々の家屋敷はぜ〜んぶパーになってしまいましたな」
そう言って、信さんは明るい笑い声を上げた。もう笑うしかないとでもいうように。しかし、その笑いには諦めや絶望は微塵もない。信さんは震災時のことをこう語る。
「去年の地震のとき、私は自分の部屋で本を読んでいた。そしたらドンと。実感としては関東大震災より今回のほうが大きかったね。私は大熊町で生まれましたが、12歳のときに父親が警視庁の巡査を志願して、家族で東京に引っ越したんです。それが大正12年。だから、大震災は2回目です」
震災の当日、役場勤めの孫と病院勤務のその妻は帰宅できず、足の踏み場もなくなった家の中で2組の老夫婦と子ども3人でろうそくをともして、朝を待った。
「私ら、津波がすぐ近くまで来とったことも知らなかったんです。翌朝、起きてみたらどうも様子がおかしかった。そのうち孫が戻ってきて『避難しろ。早くしろ』って」(信さん)
あたりに人の気配はなかった。皆、原発の被災を知って避難した後だった。一家は自衛隊のトラックで移動。脊椎が悪い信さんとひ孫は役所の車に乗せてもらったが、トラックの荷台で移動したツルさんは「死んでもいいからここで降ろして」と途中で悲鳴を上げてしまう。1週間の避難所生活の後、千葉で暮らす信さんの二男の家に半月世話になり、4月からは会津若松に移転した。長い半生を2人はこう振り返る。
信さん「よくまぁ100まで生きたと自分でも感心します」
ツルさん「100年の半生?どうってことないね。ちょっと長生きしすぎたね。お迎えを待ってる?そんなとこだわ(笑)」
信さん「嘘だ。こないだ風邪をひいたとき『まだ死にたくない』って言ってたぞ」
ツルさん「ハハハ、そうだね。できたら大熊に帰って死にたいね」