大ヒット中の、NHK朝の連続テレビ小説『マッサン』。物語はいよいよクライマックスで、1月からドラマの舞台は北海道・余市に移る。ついに、マッサン&エリーは自らの手で、ピートの効いた“本格ウイスキー”をつくりあげることになるのだ。
そこで本誌は、主役夫婦のモデルとなった竹鶴政孝・リタ夫婦が夢をかなえるべく渡った北の大地でどのような日々を送っていたのかを、当時を知る女性に聞いた。
「西洋料理はもちろんおいしかったんですけど、日本食も上手でしたよ。それはもう、実家の母が作る料理よりもずっとおいしかった(笑)」
こう語るのは山下(旧姓・三浦)マス子さん(91)。太平洋戦争の開戦が目前にせまった昭和15年、山下さんは16歳で、“マッサン”こと政孝が興した大日本果汁(後のニッカウヰスキー)に入社。寿退社する22年まで事務員として働いた。
自宅から会社まで、4キロほどの道のりを毎日徒歩で通勤していた山下さん。「雪深い道を歩くのは大変だろう」と気遣った政孝とリタは、冬の間、山下さんを工場内にあった自宅に泊めた。
「よくいただいたのは土瓶蒸し。まつたけのね。あのころは山に入れば、割と簡単に採れたんじゃないですかね。それとすき焼きをごちそうになったのを覚えています。リタさんは食材の盛りつけにこだわりがあって、キレイに扇の形にねぎなんか並べていましたね」
戦時中は敵国人と見なされ、特高警察の監視がついたこともあったリタ。町を歩けば、白い目で見られることも少なくなかったという。山下さんは戦時中、リタが時折浮かべた寂しそうな表情を覚えている。
「外出もなかなかできなかったと思います。とくに小樽に住んでいたイギリス人宣教師の方が、戦争が始まり帰国したときは、とても寂しそうな表情をされていました。気丈で、日本語も堪能だったリタさんですが、やはり母国語で話せる友人の存在は大切だったんですね。当時、私もまだ若く、リタさんのお気持ちまで考えを巡らせることはできなかったんですが。いま振り返れば、なんて心の強い人だったのかと思います」
最後に山下さんが“リタの口癖”を教えてくれた。
「リタさんは私を『三浦しゃん』と呼んでいました。それで、いろんな場面で『三浦しゃん、人間はね、心と心が“大事もの”ですよ』と教えてくれるんです。リタさんのその言葉は、今も頭から離れることはありませんよ」