■展覧会場には笑顔が満開。“笑い合い”こそ認知症700万人時代にさす希望の光
制作を見守った手塚さんは、訪れる蛭子さんに、いつも「初めまして!」と声をかけた。
「わたしのことはすっかり忘れているようです。だったら、毎回初対面と考えて、また新しく関係を作り上げればいいだけ。明日、忘れたら、また『初めまして』で関係を築けばいいでしょう」
認知症の母にいつもイライラしているわたしは、介護するヒントをもらった気がした。
手塚さんは、こう続けた。
「漫画家にとっての生命力は、一人でも多くの人におもしろいと思わせたい、という気持ち。漫画家は、それを背負いながら生きます。その気持ちを失ったときに、漫画家として命は終わりです。
蛭子さんが『絵を描くのが楽しい、またやりたい』と話していたことがあります。認知症になっても人を喜ばせたいという気持ちがまだまだ残っているんです」
かつて蛭子さんは、絵を描くことについてこんな話をしていた。
「小学校のときは長屋に住んでいたんですけど、近所の子を集めて画用紙に描いた紙芝居を見せたらすごい人気になったことがあるんですよ。もっと小さい子には船とか動物の絵とか描いたりしていましたね。あとは父親がいつも留守で家では母ちゃんと2人っきりでしたから、絵を描いて母ちゃんを喜ばせていました」
20歳で父親を亡くした蛭子さんは、上京するにあたって何よりも気に病んでいたのは、母のマツ子さんを1人で故郷に残すこと。
マツ子さんは、こう言って蛭子さんの背中を押した。
「好きなごとせんね」
長崎の方言で「好きなように生きなさい」という意味の言葉。おまえの好きなように……。
蛭子さんの持論は「芸術よりもサービス業」だ。人を喜ばすのが好きなのは、認知症になっても変わらない。だって蛭子さんの展覧会場は笑顔がいっぱいだ。レセプションにいたツージーQこと辻村さんも大分県から駆けつけた。
「蛭子さんの頭の中に流れる映像を見ているみたいだよ」
と、笑顔を見せた。
美術クラブで一緒だった土平さんは、50年前からやりとりしている蛭子さんの年賀状をすべて持ってやってきて、こう笑った。
「新しいステージにいる蛭子君の絵を見た気がする。これからが楽しみになった」
認知症の人がいるのが当たり前になる社会はやってくる。そのとき笑顔があれば、認知症の人も、介護する家族も肩の力が抜ける気がする。わたしもこれからは笑顔で母と接してみようと思った。
8月4日。蛭子さんは埼玉県所沢市にある蛭子家の墓参りに行ってきたという。悠加さんが語る。
「最初は、どこに行くのかわからない様子でしたが、お墓参りを済ませたあと、主人が『いつも悠加ばかりに任せて申し訳ない』と言ったんです。そして『また墓参りに来たいな』とも。認知症になる前は絶対に言わなかったこと。
仲間たちと一緒に絵を描いたのがよかったのか、最近は表情も明るくなったようです」
蛭子さんが絵を制作中にいつもかぶっていたキャップには、
「All’s well that ends well」(終わりよければすべてよし)
と書かれている。
蛭子さん、これからも“好きなごとせんね”。
(取材・文:山内太/編集:吉田健一)