「サブカル少女が、お笑い猛獣の檻に放り込まれた」清水ミチコ 挫折と転機の『夢で逢えたら』
画像を見る リハーサル中、夫(左・手前)や弟・イチロウさん(左・奥)と打ち合わせ(撮影:小松健一)

 

■「うれしさで足がふるえた」ーー。 笑いの味を覚えた中学の応援演説

 

岐阜県は飛驒高山で、お菓子やケーキ、果物を取り扱う清水屋商店の長女として、清水ミチコは’60年1月27日に生まれた。

 

「両親はふだんから楽しい人たちで、人の悪口を言うときも、夫婦して『もっとうまい言い方はないだろうか』『一言で特徴を表したい』って真剣。悪口っていっても、笑いがあると嫌な感じがしないんですね。私の芸の根底には、両親の姿があるかもしれないです」

 

テレビを見ていても、両親共に出演者の笑いには厳しく、辛辣な批評も出るほど。

 

「そんな両親を喜ばせようと、学校で人を笑わせた話をすると『やめなさい』『お前の笑いは寒い』って、すごく叱られるんです。“普通が一番”という昔ながらの考えの人たちなので、私は面白さより、勉強をして、真面目に育つことを求められていたんですね」

 

だから、当時、女子小学生には定番だった山口百恵や天地真理、桜田淳子のモノマネを披露するのは、同級生の前に限られていた。

 

「友達の前でピアノを弾いて、一緒に歌うことも。幼少期にピアノ教室に通っていたんですが、練習曲はつまらなく感じて、すぐにやめてしまったんです。でも、基礎は学んでいたので、テレビから聞こえる歌謡曲やCM曲を、耳コピで弾いてました」

 

忘れられないのは、中学1年生のとき。生徒会長に立候補した先輩の応援演説だ。

 

「真面目な口調で、ふざけたスピーチをしたんですね。みんながおなかを抱えて笑うほどウケて、会場が揺れたんです。壇上から下りるとき、バランスを崩さないように床の木目に沿って慎重に歩かなければならないほど、うれしさで足がガクガクでした」

 

中学校の卒業式では、卓球部の後輩2人が泣きながら駆け寄ってきた。男子なら第2ボタンを渡す準備をするところだが、求められたのは百恵ちゃんのモノマネ。

 

「自分は、人に喜ばれる“何か”を持っているのかもしれないと思った体験でした」

 

実家では、空き店舗を改装して始めたJAZZ喫茶が軌道に乗り、3店舗ほど出店。長女であるため、いずれは1店舗を継がなくてはならないという思いから、短大の家政学部に進み、家庭科の教職課程も学んだ。

 

「上京して19歳のときに、ずっと好きだったタモリさんのライブに行ったんですね。お笑いと音楽を融合したステージに魅了され、ネタを考えていらっしゃる作家さんにファンレターや自分の作品を送ったんですが……、お返事はいただけませんでした(笑)」

 

’80年代に入ると、短大の同級生はブランド品を身につけ、ディスコに旅行に明け暮れていたが、ミチコは対照的に、深夜ラジオやパロディ雑誌に、せっせとはがきを投稿する地味な毎日。

 

家庭科の教員免許も取得し、短大卒業を控えるころになると、実家の両親からことあるごとに「飛驒高山に帰って、喫茶店を手伝ってほしい」と電話がかかってくる。

 

だが、刺激のある東京を離れたくない。デリカテッセンのアルバイトを見つけたときも「飛驒高山にはない店だから、修業のつもりで働いてみるね」と理由をつけて、実家に帰るのを延期した。

 

「ここの店長が恩人。『どんなことが好きなの』『休みの日に何をしているの』って、私に興味を示してくれるんです。それでお笑いが好きで、ラジオにも投稿していると言うと、『素晴らしいことじゃない』と、ラジオのディレクターだった親戚の方を紹介してくれたんです」

 

バイト先の店長が、自分ですら気づかなかったお笑いへの情熱を掘り起こしたことで、“趣味”としてではなく“仕事”として捉えるようになった。

 

「隣の住人に聞こえないように、布団にもぐりながら桃井かおりさんのモノマネをしたりして、25分にまとめたテープをディレクターさんに送りました。すると、気に入ってもらえたみたいで、ラジオでクニ河内さんのアシスタントを務めることに。東京で録音するものの、放送されるのは福岡や宮崎などローカルなんですが、私にとっては大事件でした」

 

こうした経験を積み、渋谷の老舗ライブハウス「ジァン・ジァン」でワンマンライブのチャンスを得た。そのときに来客したのが永六輔さんだ。

 

「遅刻したうえに、大柄な体にダウンジャケットを着込んでいたものだから、ものすごく目立って。次の日に、ライブハウスの人から『永さんがお会いしたいと言っています』と連絡があったときは、なんて褒められるのかなって期待していたんですが、めちゃくちゃ叱られた(笑)。『芸はプロだけど、生き方はアマチュア。ライブが終わってお辞儀するとき、靴の先が楽屋に向いていたぞ』など、礼儀や常識を教えてくれました」

 

永さんとの出会いによって、テレビ局スタッフともつながり、ついには『笑っていいとも!』のレギュラー出演を射止めたのだった。

 

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