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「今年の9月に『最高齢ビューティーアドバイザー』としてギネス世界記録にも認定されたんです。人生でいちばんうれしかった」

 

柔和な笑みを浮かべながらも、力強い目でそう話すのは、福原キクヱさん。ポーラの訪問販売員であるビューティーディレクターを、60年近く務め、生涯で累計売上3億円を超えるすご腕の販売員だ。

 

美しい眉のラインに、頬紅をさした艶のいい肌と、お化粧はバッチリ。レースの刺しゅうが入った水色セーターに黒のジャケットとパンツを着こなす姿はとても若々しい。しかし、なんと御年99!

 

「今は、累計売上4億円を目指しているんです。人生は前進あるのみです」

 

大正9年、島根県で誕生したキクヱさんは、父を5歳のときに、母を15歳のときに亡くし、小さいころは叔父と一緒に暮らした。そんななか「手に職をつけたい」と18歳で上京、19歳でマリールイズ美容女学校(現マリールイズ美容専門学校)に入学し、同学校の美容室で働き始めた。

 

「当時、お店には男爵家や宮家の方もシャンプーやひげそり、美顔マッサージを受けにお忍びでいらして……。私も三笠宮百合子妃のシャンプーをしたことがあるんですよ」

 

一方で、戦争は激化し、戦火が東京にも届くように。キクヱさんは初めて空襲があったのを機に、広島へと避難した。

 

「そこで、主人と出会ったんです。空襲警報が鳴る中、防空壕でのお見合いで。見つからないよう、電灯に風呂敷をかぶせてあったので、最初は暗くて顔がよく見えなかったのよ(笑)」

 

昭和21年、夫・保さんと結婚。4人の男の子に恵まれたキクヱさん。夫の建設会社の社宅の寮母をしながら、子育てに励む日々が続いた。そんなときに、ポーラと出合ったという。

 

「30代のころかしら。肌にブツブツができて『嫌だわ〜』と悩んでいたとき、販売員に薦められたポーラの化粧水と乳液を使ったらすぐに治って。もううれしくて、それから愛用するようになりました。それで、あるとき販売員の女性から、『私が夫の転勤で辞めちゃうから、代わりに化粧品の販売してくれない?』と頼まれたの。最初は子どもも4人いるしと、断ったんだけど、同じ社宅に暮らすお友達たちが『買ってあげる』と言ってくれて。これがきっかけで始めたんです」

 

こうして、キクヱさんは40歳のとき、ポーラの販売員になった。

 

「初めはお友達のところへ販売に行っていたんです。でも、だんだん行き詰ってきて。それで、風呂敷に化粧品を包んで、一軒一軒知らない家を歩いて回るようにしました。『こんにちは、いいお天気ですね〜』と挨拶から始めてね。2度、3度と辛抱強く通ったものです」

 

努力は実を結び、売り上げは右肩上がりに。さらに、キクヱさんは自動車免許を取得。愛車のマツダのクーペに乗ってお客さんの元へ通うようになり、仕事はさらに勢いづいた。

 

「月に100万円近く販売していたときもあります。『主人のお給料はあてにしない』と思って働いていました。仕事は大好きだった。でも、子育てや家事も忙しい。家事はいっさい私の役目。家では毎日、お酒好きの主人と、おなかをすかせた子どもたちがまっているんですよ。それで、夜になると『あと一軒回りたい』と思いながらも、急いで家に戻って、裏口からそっと入るんです。それで、まずは主人のつまみを出して、時間を稼ぐ。その間に子どものご飯を作っていました」

 

40代後半で息子たちは大学へ。

 

「年子に近いから学費も大変。4人のうち2人は東京、1人は大阪で下宿代もかかった。それでも、息子たちを大学に行かせられたのはポーラのおかげ」

 

末の息子も大学を卒業し一息つけるかと思いきや、離婚した長男の一博さんが、孫3人を連れて戻ってきた。キクヱさんは再び、3歳、2歳、1歳の孫の育児を担うことに。さらに、義母の介護も重なる。

 

「朝、孫を保育園に預けて仕事に出かけて、お昼は義母の介護でおしめを替えるために、途中で家に戻るんです。夜、家に帰っても、夕飯作ったり、孫たちを寝かしつけたりと忙しくて、毎日寝られるのは2時過ぎでしたね」

 

それほど多忙な中でも、仕事を続けられた情熱の源を、「皆さんがキレイになっていくのがすごくうれしいから」と話すキクヱさん。営業にもマイルールがあるという。

 

「化粧品は、必ずまず自分が使って『いい』と思ったものだけを紹介するんです。それに、お化粧品は化粧水、乳液、美容液と数種類あるけど、私はセットで薦めることはしない。無理強いは絶対しない。その人に合った商品を選びます。昔とった杵柄で、顔のマッサージもしてあげたりしました。大事なことは、数字よりもお客さんが美しくなること、喜んでくれること。じっくり話を聞くことも心がけています」

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