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頭を使って、少ないコストからより大きなリターンを得ようとする。こうした投資的発想に、「手抜きだ」「ずるい」という印象を持つ人も多いようだ。僕は、そうした批判に対してはいつも「手抜きだから何なの?」と返す。

 

そもそも、「手抜き」には2種類ある。

 

一つは、「手を抜いて、頭も使わない」タイプ。これは単なる怠けである。仕事でこの手抜きをすれば、何の成果も出せない。上司がいれば見捨てられるだろうし、一人で仕事をしている人ならやがて発注が途絶えるだろう。

 

そしてもう一つは、「他のもっと有益なことに手や頭を使うため」にショートカットするタイプだ。

 

たとえば、膨大なデータの精査やリスト化をコンピュータに任せ、自分はその結果を分析することに注力する。あるいは、その作業すらAIに任せる。もっと身近な話では、日常生活でコストとなる家事を専門業者に頼み、その時間を使って自分のしたい仕事をする。

 

これは、怠けとは根本的に違う。浮いた時間は、自分の本当にやりたいことに使えるのだから。自分をさらに成長させるための積極的な「手抜き」だと言える。

 

僕は昔から、時間や労力の無駄遣いが大嫌いだった。それにかかわっている間に、僕にはやりたいことがいくらでもある。時間は有限、一日はたったの24時間しかない。

 

物事の効率化にはいつも頭を使ってきたし、お金も一切惜しまない。一つの目的を達成するためのアクションをどれだけスリムなものにできるか、それを常に考えている。

 

だから僕は、うまくショートカットしている人を見たときに「ずるい」などと批判する気にはならない。むしろ、「うまいなあ!」と称賛したくなる。ショートカットできるのは、知恵を持っていて、自分の時間を大切にしている証拠なのである。

 

僕が問題視するのは、こうした考え方に反発する人たちの、「時間をかけ、苦労や我慢を重ねて得るものの方が、短い時間で手に入れるものよりも価値が高いはずだ」という、根拠のない思い込み――つまり思考停止である。

 

たとえば僕は昔、「寿司職人が何年も修業するのはバカ」とツイッターで発言し、炎上したことがあった。寿司を握る技術自体は、集中的に学べば数ヶ月で習得できる。修業の目的は「おいしい寿司を握ること」のはずなのに、「長年の修業」自体が目的化され、神聖視されているのはおかしい、という趣旨だった。

 

僕の元には、「職人をバカにするな」「10年修業しないと身につかないセンスがある」などという批判的意見が殺到した。

 

だがその後、僕の意見の正しさはしっかりと証明された。調理師学校「飲食人大学」で「寿司マイスター専科」を3ヶ月受講しただけの寿司職人の店「鮨 千陽(ちはる)」が、ミシュランに掲載されたのである。

 

彼らがそこで「いや、寿司屋をやるなら10年修業しないとダメなんだ」と思い込み、独立の前に下積みを選んでいたら、彼らの技量が評価されるのは何年先になっていたかわからない。

 

僕は、「10年の修業」にこだわって思考停止する人たちよりも、彼らのように本来の目的を見失わず、質の高い努力で素早く世に出ていく人を応援したい。そして、あなたにもできたら後者であってほしいと願っている。

 

 

以上、堀江貴文氏の新刊『すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論』(光文社新書)から引用しました。

インターネットの発達で国境を無視した自由な交流が可能になった現代、もはや義務教育で学ぶ「常識」は害悪でしかなく、学校の敷いたレールに乗り続けては「やりたいこと」も「幸せ」も見つからない。

では、これからの教育の理想形とはいかなるものか? 本音で闘うホリエモンの“俺流”教育論!

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