「思い出横丁」の歴史は昭和23年頃、戦後の闇市にまでさかのぼる。小麦粉が出回らず、ラーメンもうどんも口にできなかった時代。「この通りができた時からお店はあったけど、最初はおイモとか出してたみたい」(芙美子さん)。当時店を切り盛りしていたのは、まだご存命の初代のおばあさん、若月さん。そして次作さんのお姉さん。荒川の方で営んでいた食堂が戦火で焼け、戦後新宿に流れてきたのがはじまりだったという。今の半分の大きさだった「若月」で“ラーメン屋の小僧”として次作さんが働き始めたのは昭和42年頃。まだ16才の“ボーヤ”だった。
「最初はヤだったよ! まだ“組”のナワバリがバンバンあったからね。ケンカがあって、おまわり呼んだって、1人じゃ入ってこれないんだから! 今はいいよ、ケンカったって普通の人たちのケンカだもん。でもあの頃は…『オレはなんでこんなとこ来なくちゃなんないんだ』って(笑)思いながら働いてたよ」(次作さん)。今でこそ古き良き時代のシンボルとして語られる「思い出横丁」だが、その昔は女性はおろか、一般人にはかなり難易度の高いエリアだったようだ。
「おまわりに追われて店の裏口に逃げてきて、『ボーヤ、これあずかっとけ』って“白サヤ”置いていかれたりね。『どーする!どーする!』ってドキドキしちゃったよ。だってこっちは田舎から出て来たばかりの、な〜んにも知らない16〜7のガキだよ!」
映画のワンシーンみたいな話。あまり出演したくないけど(笑)。田舎っておっしゃいましたが、次作さんの田舎ってどこですか?
「新潟。冬になると雪が4メートルも積もるんだよ」