二代目店主の玄地(げんち)正和さん。お店より2年早く生まれ、物心ついた頃から父の働く姿を見てきた。
「最初は太鼓焼のお店で、おじいさん(父)がアズキ煮てたの覚えてますね。戦後で食べ物ないから、甘いものが重宝されて。ガスもなかったから、おがくずで火を起こしてましたよ」
甘味も好評だったが、時代は支那そばへ。おじいさんこと正和さんの父、先代の与四太郎(よしたろう)さんは甘味と並べて支那そばも出すようになる。自己流だったという。
「うまい味おぼえて、何をどう使えばこういう味になるって再現できちゃう。おじいさんはそういうの得意でしたね」
朝5時起きで、夜9時すぎには寝てしまう。そんな働き詰めの父を見て、小学生の頃からお店の手伝いをしていた正和さん。日曜日に遊んだ記憶がないという孝行息子ぶりで、いずれ店を継ぐことになると思いながら、大学最後の1年半で夜間の調理師学校へ。
ただ「竹の家」で父と働くことになるのは、ずーっと後の話で、40を目の前にした平成になってから。学校卒業後は横浜中華街で修行を積み、26歳で相模原に自分のお店を持った。
「親の紹介はいやだったね。どうしても甘えが出ちゃうし。相模原では餃子、シュウマイ、酢豚に焼きそばも出してましたよ」
「竹の家」はラーメン一品の専門店だが、正和さんはもともと中国・中華料理の料理人。話を聞いていても引き出しが豊富で、材料の目利き、下ごしらえの仕方など、ラーメン一筋の職人さんとはまた違ったこだわりを持っている。
「中華街でもあんまりやってない焼きそばを教わってね。まず蒸してね、茶色くなるまで。今度はほぐして、冷ましておいて。それからゆでるんですよ。それを水で洗って、冷まして、水切りをしたら醤油とごま油で味をつけるんですよ。そこまでが仕込みなんです。それを少量の油で裏表焼いて…」
あんまりおいしそうだったので、載せてしまいました。