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「母の認知症の症状は、突然出たんです。だから最初の1年は、私自身、どう過ごしていたか、よく覚えていない。記憶が飛んでいるっていうかね、それほど混乱していましたね」

 

女優・松島トモ子さん(74)は母・志奈枝さん(99)が突然、認知症を発症した日から始まった介護の日々を一気に振り返る。

 

「母の親しいお友達を招いて、都内の中華料理店で95歳の誕生会を開いていました。でも、母の様子が明らかにおかしい。いつもは、好奇心旺盛な母が、人の話を聞こうともせずガツガツと料理を食べ続けていたんです。私は、母に合図を送るつもりでテーブルの下から母のヒザに手をやりました。そしたら、母が失禁していた。もうあのときは、頭が真っ白になってしまって」

 

帰宅してからが地獄でした。ふだんから私とも敬語で話していた母が、罵詈雑言の嵐。『年寄りを虐待してアンタは楽しいのか!なんて言っては、周りのものを手当たり次第投げつけてくる。いつも綺麗でレディだった母が、180度変わってしまった。

 

「真夜中になると、『トモ子に殺される!』と大声で叫びながら外に飛び出すんです。母は短距離の選手でしたから、徘徊というより、まるで“遁走”。速い、速い。とても追いつけません。だから私、夜は母の部屋の前に布団を敷いて、洋服を着たまま寝ていました」

 

それでも、松島さんは自宅介護を続けた。そこには、ずっと松島さんを守り、4歳でデビューしてからもつきっきりでマネージャーを務めてくれた母への思いがあったからだという。

 

松島さんは、45年に旧満州の奉天(現在の中国・瀋陽市)に生まれた。

 

「奉天は、三井物産の商社マンだった父の赴任先でした。母も、三井物産の社員の娘で、幼い頃は香港のイギリス系女子校で学んだお嬢さま」

 

そんな両親の元に生まれた松島さんは、なに不自由ない生活を送るはずだった。しかし、45年4月。父に召集令状が届く。松島さんが誕生する、わずか2カ月前のことだった。

 

「父は、私が生まれるのを心待ちにして、戦地から何通も母にはがきを送っていたそうです。最後に届いたはがきには、〈待っていてくれ! 必ず無事でいてくれ〉と書かれていました」

 

父が出征してから3カ月後、日本は敗戦――。

 

「ソ連が進駐してくるなか、母は生後1カ月の私を必死で守ったそうです。でも、待てど暮らせど父は帰ってこなかった。翌46年5月、突然決まった引き上げ。母は私を抱きかかえて、ぎゅうぎゅう詰めの屋根のない“無蓋列車”で奉天を出発。その後、引揚船で命からがら帰国しました。『赤ん坊を船に乗せたら死んでしまう。(中国に)置いていけ』と何度も言われたそうですが、母は、『この子を無事に連れて帰れたら、もう一生、自分自身の望みごとはしません』と神様に祈って、決心を変えなかった。同じ船で生き残った乳飲み子は、私を含め2人だけでした」

 

その後、父はシベリアで亡くなったことが判明する。親子の長い旅路が始まった。それからも、松島さんと志奈枝さんは、常に一緒だった。

 

「(認知症が)発症して1カ月後、とうとう私は慣れない介護の疲れとストレスで倒れてしまった。診断はストレス障害。体重も40キロから33キロになって。周りからは『共倒れになるから介護施設に入れたほうがいい』と言われました。でも母は昔、旧満州から幼い私を抱えて命がけで日本に戻ってきてくれた。それを思うと、今度は私が恩返しをする番じゃないかって。でも、何がいいかは、ご家庭で違います。施設に預けたほうがいいこともありますからね」

 

大変な日々が続くからこそ、母と過ごすなんでもない平凡な1日が幸せ、と思うようになった、と語った松島さん。完璧な母親のまま亡くなっていたらきっと立ち直ることができなかった、と言葉を続けた。

 

二人で暮らすことが、いつだって守ってくれた母への恩返しだ――。

 

「女性自身」2020年3月3日号 掲載

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