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《いまだに、どこで亡くなったのかわからない友達が大勢いるんです。ひめゆり学徒隊として出発するときは、『生きるも死ぬも一緒よ』と言っていたのに……。水が欲しくても、一滴も飲めずに一人で死んでいったんじゃないかと思うと、何年たっても辛い。だから、戦争はどんなことがあっても絶対ダメなんです》

 

太平洋戦争末期、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人が、沖縄戦の看護要員として動員され、123人の若い命が奪われた“ひめゆり学徒隊”。

 

その学徒たちの遺品や資料を集めた『ひめゆり平和祈念資料館』は、いまから30年前の’89年に設立された。全国でも珍しい、戦争関連の民間による博物館だ。

 

戦争体験を語っているのは、資料館の前館長で学徒隊の生き残りの一人、島袋淑子さん(91)。

 

現在、自らの体験を語る“証言員(戦争体験者の語り手。資料館では戦後生まれの語り手のことは説明員という)”は6人しかいない。全員が90歳を超えている。

 

’18年までの7年間、資料館の館長を務め、自らの戦争体験を語ることで、戦争を知らない世代に平和のバトンをつないできた。

 

《自分たちの味方でさえも見殺しにする、それが戦争です。私自身も、目の前に転がっている死体をまたいで水をくみに行きました。よけようとして回り道すると、弾が飛んできて当たるかもしれないからです。戦争は、人間を人間でなくします。だから、みなさんは、戦争は絶対ダメ! と言える大人になってください》

 

この日も、島袋さんの74年前の悲惨な光景が目に浮かぶような語りに、平和学習のため資料館を訪れた宮古島市立下地小学校の児童は、ぐんぐん引き込まれていった。

 

今年、退位された上皇上皇后両陛下はこれまで内外の戦地を巡り、「平和への祈り」をささげてきた。その中でも沖縄は、強い思い入れを持たれてきた場所のひとつだ。

 

’75年7月、初訪問の際には、ひめゆりの塔で、過激派がお二人に火炎瓶を投げつけるという“ひめゆりの塔事件”があった。

 

しかし上皇陛下(当時は皇太子殿下)は、その晩すぐに次のような談話を発表。

 

「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく(中略)この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」

 

このお言葉どおり、お二人は計11度も沖縄を訪問され、この地に寄り添ってこられた。

 

「両陛下のそのお気持ちだけでもありがたいと思っています。この資料館も“平和の砦”としてあり続けなくてはなりません」

 

そう話す島袋さん――。

 

開館当初からの職員で、’18年から島袋さんの後を継ぎ、館長に就任した普天間朝佳さん(59)。

 

上皇上皇后両陛下が、天皇皇后として戦後初めて、沖縄を訪れたときのエピソードを明かしてくれた。

 

「’93年に上皇上皇后両陛下が、当資料館にお越しくださったとき、美智子さまが、当時館長だった本村つるさん(93)に、こうおっしゃったんです。『陛下は、(ひめゆり学徒隊を引率した教師の)仲宗根政善さんの手記「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を子どもたちに読ませています。子どもたちにもまた勉強させます。子らが今度来るときには、よろしくお願いします』。そのあと実際に、秋篠宮さまと黒田清子さんは、ご来館されました。今上天皇は、まだご来館されていませんが、“平和”への思いは、受け継がれているはず」

 

島袋さんも、こう思いを託す。

 

「いちばん大切なのは“命”です。この資料館は、それを伝え続ける存在であってほしい。もし、戦争を勝手に起こしてしまう人が出てきたら困るので、そういうことにならないためにも陛下には、いつまでも平和の象徴でいらしてほしい」

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