■「自分がやるしかない」
約30年、先生は結核治療に当たったが、年々、患者は減り、全国の結核療養所の統廃合が続く時代になっていった。
「このままでは戸馳療養所は廃合される。戸馳に核となる病院を残したいと、所長と一緒に厚生省(現・厚生労働省)や町役場にも行きました」
しかし、1982(昭和57)年、戸馳療養所は、対岸の三角町の高台に新築された国立療養所三角病院(現・済生会みすみ病院)に統合され、佐藤先生は三角病院の副院長に就任することになった。
佐藤先生は複雑な思いだった。ポツリと言う。「病院は、島外へ移転したという思いでしたね」
佐藤先生は立ち上がった。
「身近なかかりつけ医で診察し、必要に応じて大きな病院を紹介する。そんな医院が島にあるだけで、島の人たちは安心できる。自分がやるしかないと思ったんです。島の人に頼まれたわけではありません。地域医療をやってみようという気になった。まぁ、宿命ですよ」
実は、佐藤先生は小学3年生のとき、母親を亡くしている。
「母が亡くなったとき、48歳でした……。腎臓炎は予防が重要です。早く見つけて、適切な治療が必要です。私が地域医療をするのは、母のことがあったからでしょう」
65歳定年の国立病院の国家公務員という安定した職をなげうって、先生は戸馳島に佐藤医院を開業した。1985(昭和60)年、58歳のときだった。以降、優しく、的確に島の人々の健康に寄り添った佐藤先生。コロナワクチンの接種も、佐藤先生が行っている。「先生は島の宝だ」と島民たちは口をそろえる。
今年は、佐藤夫妻にとって結婚70周年のプラチナ婚に当たる年。夕日が美しい港で、夫婦の写真を撮らせていただいた。
「普通にボヤ~ッと過ごしてきて、いつの間にか2人とも90歳を過ぎました。あっという間よね」
そう言って、先生を見つめる圭子さんに、先生は深くうなずく。圭子さんの前だと、佐藤先生の口数はさらに少ない。笑みを絶やさず、ずっと圭子さんを見ている。
思わず聞いてしまった。
─先生は圭子さんのことが本当にお好きなんですね。
「いやぁ、もう好きを通り越しました」
照れる先生。圭子さんはちゃめっ気たっぷり。
「あら、私は『アイラブユー』という言葉もあなたから聞いたことはないわ」 八代海に沈む夕日が、夫婦がそっとつないだ手を照らし出していた。