4月からは、龍谷大学大学院修士課程で講義を持つ鴨志田さん 画像を見る

79年10月に発生した大崎事件――殺人罪で懲役10年を満期出所した94歳の女性がいる。知的障がいのある人の供述によって、物的証拠もなく逮捕された原口アヤ子さんだ。再審請求をしても、その手前の「再審を行うか、否か」で27年間も闘わなければならなかったのだ。

 

40年たった現在も、一貫して無罪を訴え続ける彼女を支える弁護士・鴨志田祐美さん(59)は、事件と自身の半生を重ねたノンフィクション「大崎事件と私~アヤ子と祐美の40年」(LABO)を出版するなど、事件の周知に力を尽くしてきた。鴨志田さんに、闘いの日々を話してもらった。

 

鴨志田さんは、司法修習生時代から19年、大崎事件に関わり、現在は、再審弁護団の事務局長を務めている。これまで3度、再審(裁判のやり直し)を請求したが、すべて棄却され、現在、4度目の再審請求を鹿児島地裁に申し立てている。

 

「大崎事件では、これまでに地裁で2回、高裁で1回、再審開始決定が出ています。ところが、いずれも検察官の不服申し立てにより、開始決定が覆された。つまり、アヤ子さんは『有罪か無罪か』ではなく、『再審を行うか、否か』で、27年もの間、闘わざるをえなかった。これを私たちは『再審妨害』と呼んでいます。日本の法律のルーツとなったドイツではすでに『検察側の不服申し立て』は廃止されています。いまの日本の再審制度そのものを改正しなければ、冤罪被害者は救われません」

 

熱い思いが迸る。鴨志田さんのこの一途な情熱は、いったいどこからきているのだろう。

 

■学生時代に司法試験に挑戦したが不合格3回。40歳、一念を通して合格した

 

鴨志田さんは62年9月7日、鹿児島県で誕生。横浜市で育ち、小4のときに鎌倉へ引っ越している。

 

「3歳下の弟は双子でしたが、妊娠8カ月での早産で、1人は生後5時間で亡くなりました。一命を取り留めた弟も仮死状態で、重い障害が残ってしまって……」

 

一家は、知的障がい児に手厚い小学校が鎌倉にあると勧められ、転居を決めた。

 

「横浜でお山の大将みたいに振る舞っていた私は、鎌倉に転校早々、イジメにあって……」

 

しかし、そこで負けないのが鴨志田さんだ。ほかの転校生と手を結び、学級会で訴えた。

 

「私たちは、あなた方が思っている人間じゃない。誤解しないで!」

 

自分で自分の弁護をする。将来、弁護士になる芽が、すでに出はじめていたのかもしれない。

 

とはいえ、当時の夢は、音楽か演劇で芸術の道へ進むこと。中学校では演劇部を創設し、ミュージカルを上演。バンドも結成して、ボーカルとキーボードを担当した。湘南高校入学後も、中学時代のバンド仲間と他校の文化祭に飛び入り参加して演奏した。

 

その音楽漬けの毎日が一変する。

 

映画配給会社に勤務していた父が緊急入院し、自宅に戻ることなく逝去してしまった。享年48。鴨志田さんは17歳だった。早稲田大学法学部に合格したのは翌年の春。

 

大黒柱を失った母は、弟を連れて故郷・鹿児島へ戻った。酒場のピアノ弾きから学習塾の講師と、アルバイトを掛け持ちしながらの学生生活。法学部とはいえ、司法試験受験の余裕などなかったが、就活の時期になり、女子大生の就職の厳しさに愕然とする。

 

「実力があっても、母子家庭、自宅外という理由での不採用は理不尽で耐えがたかったですね」

 

司法試験なら実力勝負だ。鹿児島に戻って、塾講師をしながら司法試験の勉強に取り組んだ。

 

しかし、3回連続で最終合格に届かず、26歳で再上京。司法試験予備校などを運営する会社に入社し、鴨志田安博さんと出会って、2年後、上司だった安博さんと結婚する。

 

「出会った当時から、夫は『司法試験は諦めたの? 再挑戦してみては?』と、勧めてくれました」

 

妊娠がわかると、夫とともに退職し再び鹿児島へ移住。91年10月15日、長男・玲緒くんを出産した。

 

それでも鴨志田さんは、諦めない。常に突き進む人だ。子育てをしながら、「脳がさびつかないように」と、行政書士などさまざまな資格を独学で取得。00年、長男が小学校3年生になったタイミングで、司法試験に再挑戦した。

 

夫はこう言って励ました。

 

「あなたはサメと同じ。サメは浮き袋がないから泳いでいないと死んじゃうんだよね」

 

合格率2~3%と現在よりずっと狭き門だった旧司法試験制度のもと、見事合格を果たす。02年11月。40歳になっていた。

 

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