『ふたりの人を愛し…』歌人・永田和宏語る故・河野裕子さんとの青春
画像を見る 歌人同士「競い合うライバル心があった」と永田さんは懐かしむ

 

■裕子さんは亡くなる2日前まで歌を詠んだ。子どもたちには、「お父さんを頼みましたよ」

 

72年5月、裕子さんは第一歌集『森のやうに獣のやうに』を出版。同月14日に永田さんと結婚した。73年に長男・淳さん(48)を、75年に長女・紅さん(46)を出産。永田さんは76年、勤務していた森永乳業を辞め、京大結核胸部疾患研究所の研究員になったが「無給で、生活のために塾の講師をしていました」と回顧する。

 

「毎晩、帰宅は夜中の1時過ぎ。それから食事をとりコーヒーを入れ、作歌は深夜の作業だった」

 

かたや裕子さんはこの時期を。

 

《子育てでへとへとになっているけれども、負けちゃいられないと同じように櫓炬燵にへばりついて歌をつくっていた》(『シリーズ牧水賞の歌人たち 河野裕子』より)

 

歌人同士「競い合うライバル心があった」と永田さんは懐かしむ。

 

「夜中に炬燵を囲んでふたりで歌を作っていると、2階から子どもの泣き声がしてくる。どっちが面倒を見に行くかで、よくけんかになりました。醤油瓶が飛んだりして、壁にビャッと飛び散ってね」

 

ユニークで忙しない作歌と育児の日々も、裕子さんが愛情を注ぐ優先順位は一にも二にも夫だった。

 

《私は自分に自信がなくて、生きていくのがしんどくてしんどくてしようがないときに永田に会いました……そう。(永田に)すべての愛情をかけようと思いましたね》(『私の会った人びと』より)

 

こんな一首を残している。

 

《しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ》(『紅』より)

 

子育てを詠んだ一首として定評があるが、長男・淳さんは「ご飯を食べさせ、日干しした布団に寝かせたい相手とは、父のことだったと思います」として続ける。

 

「母は『子どもはしっかり食べさせれば放っておいても育つ。私は、子どもより永田和宏を大事にしてやってきました』と公言していた。

 

《良妻であること何で悪かろか日向の赤まま扱きて歩む》(『紅』より)という一首には『良妻でいるのは素晴らしいことじゃないか』という母の主張が込められていたんです」

 

淳さんは01年に歌集出版社の「青磁社」を立ち上げ今日に至る、三男一女の父である。

 

長女・紅さんは01年に母と同じ現代歌人協会賞を受賞(親子で初)した一方、父と同じ細胞生物学を研究し、現在は京大特任助教だ。8歳の長女の母である彼女が、母在りし日の永田家を語る。

 

「決して教育ママではなく、自分の興味、楽しみに兄と私を巻き込む母でした。父はそんな母に“褒められて育った”感じですね。父が出すアイデアに『それって面白い!』とすぐ呼応する。話し好きで、父が向かうところトイレまでついて行き、外から話しかけている……そんな母でした」

 

大人になって両親の晩酌に参入すると、それはにぎやかだった。

 

「夜遅くまでそれぞれ選歌したり、詠んだりで、夜中にリビングに集まってきて酒盛りが始まる。ワイン片手に話す父を私たちが囲み、父が酔ったころに母も飲み始めて」

 

“歌壇のサザエさん一家”といわれるほど筒抜けで仲むつまじい家族。

 

だがそこから、裕子さんひとり、病魔に引っぱられてしまう。

 

《左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり卵大なり》(『日付のある歌』より)

 

00年9月、彼女に下った診断は乳がん、リンパ節に転移あり。

 

「河野は左乳房3分の2の切除術を受けた後、放射線療法に入りました。幸い経過はよく、その時点で再発の恐れはないという。僕らは日常に戻りつつありました」

 

こう話す永田さんだが、もっともストレスを感じていたのは裕子さんだったと気づかされる。

 

「術後の左側の痺れやこわばり、痛みがありました。それを誰もわかってくれないという不満。その矛先が僕に向けられたんです。どれくらいいたわってくれるか、わがままを聞いて耐えてくれるか、僕を試しているようでした……」

 

裕子さんは永田さんの言葉尻をとらえて、責めてきたという。

 

「がんがわかったとき僕は『俺にも半分責任がある』と言いました。夫として気づくべきだったと。しかしその言葉が独り歩きして、僕への非難になりました。『あんたのせいでこうなった』と」

 

しかし、どんなに体がいうことをきかなくても、夫の食事だけは欠かさず作ってくれている妻に、永田さんは慈しみがまさるのだ。そして裕子さんは、そのころの出来事をこんなふうに詠んだ。

 

《あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて》(『葦舟』より)

 

「この一首で、僕は、それまでの河野の激情も、罵言も、すべて許せると思いました」

 

歌を通じてわかり合い、より結びつきを強くした夫婦にも、永別のときは迫りくる。08年7月に再発・転移がわかると、裕子さんは次第に弱っていった。しかしそこから2年あまり、亡くなる2日前まで詠み続けた。

 

《長生きして欲しいと誰彼数へつつつひにはあなたひとりを数ふ》(『蝉声』より)

 

永田さんが声を湿らせる。

 

「この一首は僕が口述筆記しました。河野の『あなたにだけは長く生きてほしい』という最後の願いが、僕のお守りとなりました」

 

長男と長女は、こう伝えられた。

 

「お父さんを頼みましたよ。お父さんはさびしい人なのだから、ひとりにしてはいけませんよ……」 そして次の歌が辞世の一首に。

 

《手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が》(『蝉声』より)

 

10年8月12日、裕子さんは64年の生涯に幕を下ろしたーー。

 

(取材・文:鈴木利宗)

 

【後編】75歳、人生の繁忙期 歌人・永田和宏「天の妻はきっと褒めてくれる」へ続く

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