いつ来るかもわからない「いざという時」のために我慢を重ね、リスクヘッジした気になって安心するのが「貯金型思考」だ。ここからは、今の自分を豊かにするための、「投資型思考」についてさらに考えたい。
「投資型思考」の人間が大切にするべきは、「コスパ」だ。時間対効果、費用対効果がよくなければ、それは「投資」にはなり得ない。
たとえば、手持ちのお金が1万円しかないとする。この1万円は大切にとっておいて、これから毎月、3万円ずつ貯金していこう。これが「貯金型思考」だ。
一方、「投資型思考」の人は、こう考える。
手持ちの1万円を、「何に使えば」、今すぐに100万円にできるか?
ここで「戦略の視点」が持ち込まれる。すなわち、判断基準をつくって投資する先を絞り、そこから選択するということ。投資する価値があると思えるところに資本を集中投下し、他は無視。そんな潔さが求められる。重要なのはコツコツと貯金を続けるようなマメさではなく、知恵なのである。
試しに考えてみよう。あなたが1万円で買ったりんごの木が、100個のおいしい実をつけた。さて、このりんごをどう売れば、当初の買い物の価値を最大化できるだろうか?
一つ200円で売ったらどうなるか。売り上げは2万円。初めに1万円を投じたから、利益は1万円だ。毎年これが続けば、りんごの木の購入はれっきとした「投資」となるだろう。
もちろん、これにはさらに条件を加えなければならない。
実際は、収穫の手間、農薬代、維持費がかかる。時間対効果、費用対効果を考えれば、1個200円で売っているだけではさしたるリターンには繋がらないのだ。
では、このりんごの価値をもっと高めるために、あなたには何ができるだろうか。
大抵の人は、ここでこう考えてしまう。
「よりおいしいりんごを作って、もっといい値段がつけられるように頑張ろう」
これが間違いだというわけではない。ただしこのルートを進むと、待っているのは苛烈な「味の改良競争」社会だ。あらゆる農家が切磋琢磨している中、新参者のあなたが頭一つ飛び抜けるまでには、相当なコストがかかるだろう。
ここで投資的な発想のできる人なら、こんなことを考えるかもしれない。
「このりんごをアイドルに収穫させ、手描きのメッセージなどを添えてもらえば、多少値段を上げても売れるから儲けは倍増するだろう」
「おいしいりんご」は世の中にたくさんあるが、「アイドルの〇〇ちゃんが収穫したりんご」はここにしかない。しかも、そのために必要な手間といえば、アイドルをそこに呼んで収穫を手伝ってもらうことくらいだ。ファンも喜ぶし、彼女にとっても自己PRの場になって立派なタイアップだ。
この違いがわかるだろうか。
どちらも、りんごの希少価値の高さを追求していることに変わりはない。ただし、資本を投じる先が、前者はりんごの「美味しさ」であるのに対し、後者はりんごの「付加価値」である。
実は、この手の発想で話題になったりんご農家が実際に青森にある。
その農家は、ある年大型台風の直撃を受けた。まだ木になっていた実の大部分が地面に落下。売り物になるりんごはごくわずかだった。このままでは、売り上げは例年にははるか遠く及ばない。
しかし、農家はそこで逆転の発想をした。台風に耐えたりんごを「落ちなかった=試験に落ちない」に引っかけて、願掛けアイテムとして売ったのだ。反響は上々で、全国から注文が殺到し、高値で売れたという。
自己投資と称して、英会話教室に通ったり、ITの資格を取ったり、著名人のセミナーに通ったりするのは「頑張っておいしいりんごを作る」のと同じ努力である。
単なる「英語が堪能な人」「ITの資格を持っている人」を目指したところで、似たような人間は山ほどいる。
「頑張る自分が好き」ならそれでもいい。しかし、本当に希少価値の高い人材を目指すのであれば、その戦法は通用しない。あなたが愚直に頑張っている間に、賢い人は、語学や資格を凌駕する希少価値を手早く掴み取り、先に行ってしまう。
使うべきは、時間でも労力でもない。お金ですらない。「頭」なのだ。
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以上、堀江貴文氏の新刊『すべての教育は「洗脳」である~21世紀の脱・学校論』(光文社新書)から引用しました。