1月31日、宇都宮市内で《宇都宮ギョーザ日本一 3年ぶり 浜松から奪還 764円差 PR活動結実》の見出しも誇らしげな地元紙『下野新聞』の号外が配られた。宇都宮市が、3年ぶりに総務省発表「餃子消費量」ランキングで首位を奪還したのだ。

 

「東日本大震災後、餃子店の被害は甚大でした。風評被害で同じ栃木の日光や那須から観光客がいなくなり、宇都宮に立ち寄る人が激減。売り上げは9割落ちました」(宇都宮餃子会事務局長の鈴木章弘さん・41)

 

「宇都宮といえば餃子」という認知は、すでに全国区。総務省の調査に「餃子」の項目が加わった’82年、初代1位だったのが宇都宮だった。JR宇都宮駅を降りると「ようこそ、餃子日本一の町へ」という看板が、ここかしこに見え、立派な大谷石製の餃子像が迎えてくれる。

 

市内約350店舗が餃子を提供し、うち80店舗が宇都宮餃子会に所属。年間に餃子を食べに訪れる観光客は約80万人。’99年11月の第1回宇都宮餃子祭りには、全国から2万人が押し寄せた。その後も、宇都宮餃子のブランド力は絶大で、’08年の中国毒餃子事件の打撃はあったものの、15年間、日本一であり続けた。

 

しかし、’11年3月11日。東日本大震災は、その宇都宮不動の日本一の座にまで激震を与えたのだった。

 

「震災時、宇都宮の震度は6。揺れはありましたが、海がないので津波もなく、営業しようと思えばすぐにも店は再開できたんです。痛かったのは、原発事故の風評被害とそれに追い打ちをかけた計画停電。これで作れない、売れないのダブルパンチでした」(宇都宮餃子会代表理事の平塚康さん・61)

 

このままでは、長年かけて培い、浸透してきた宇都宮餃子が廃れてしまう。それは恐怖にも似た危機感だった。作れないから売れない。売っていないから食べない。家庭の消費量の落ち込みは目に見えていた。覚悟はしていたものの、’12年1月に発表された家計調査で、宇都宮はとうとう日本一から陥落。トップに踊り出たのは’07年に「浜松餃子学会」が発足したライバル、浜松市だった。

 

そこで、鈴木さんら40代の“若手”は各方面に働きかけ、’12年4月、「日本一奪還推進委員会」を結成。5月、市内の有力企業100社を巻き込んでの決起集会「キックオフパーティ」を開催。HPも開設し、毎月の餃子消費量を掲載。耳目を集めるのが狙いだった。それがヤフーのトップニュースになると、テレビ局も注目。全国の応援団も増えていったが、迎えた’13年1月、結果は予想外の2位残留。

 

「餃子専門店も盛り返していたし、スーパーでも『餃子、好調です』と聞いていたので、この結果は正直、不思議でした。同時に、初めてつらかった。震災直後は、餃子じたいが小売店になかったし、その後も売れなかったのは、気持ち的に家で餃子を焼こうとは思わなくなったから。その分、日持ちがし、すぐおなかを満たせるカップ麺やパンに流れた。震災が人々に与えた生活習慣の変化や心の傷は根深いなぁと思いました(鈴木さん)

 

そもそも家計調査の数字は、スーパーなど、小売店での世帯あたりの購入額が基準。奪還委員会はメゲずに地道な活動を続けた。風向きが変わったのは、昨年7月。月間の調査結果が過去最高の928円を記録。11月に開催する恒例の餃子祭りには、一皿200円の餃子を食べるために、14万2千人がやってきた。そして運命の1月31日、ついに宇都宮市は、念願の日本一を奪還。鈴木さんは、震災から3年の活動をこう分析する。

 

「真の震災の復興とは、地元への愛を深めていくことだと、強く感じました。宇都宮の人はよく言うんです。『何もない町ですが』と。いや、そうじゃない。『宇都宮には餃子があるじゃないか』と!持っていないものを嘆くより、地域にあるよいものをよいと認めて伝えていく。それが、本来の町としてのパフォーマンスだと思います」

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