桜の咲く公園に出かけたまりさんと長谷川医師(提供:まりさん) 画像を見る

「父の日記には『電車を乗り間違えた』『講演の途中で話すことがわからなくなった』といった記述がだんだんと増えていきました。認知症の専門医である自分が、認知症かもしれない……という恐怖や心配は、父の心にあったと思います」

 

そう語るのは、認知症専門医の長谷川和夫さん(92)を父に持つ、南高まりさん(59)。

 

長谷川さんは、聖マリアンナ医科大学名誉教授で、認知症研究の第一人者。当たり前のように使われていた「痴呆症」という呼称を改めることに尽力し、認知症診断の物差しとなる「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発した人物だ。

 

そんな長谷川さんが『僕も認知症なんです』と明かし、世間を驚かせたのは’17年10月のこと。以後も長谷川さんは、進行していく症状を受け入れながら、認知症にまつわるさまざまな情報を発信し続けている。

 

長谷川さんの活動をサポートしている長女のまりさんは、“父の記憶に残せるように”と、『父と娘の認知症日記』(中央法規出版)を今年1月に出版。長谷川さんの日記や写真を基に、60年の歩みをまりさんの視点で綴っている。

 

「父は国際会議や学会のために、世界中を飛び回っていました。そんな多忙な中、歯医者さんに連れていってくれるのは父の役割で、帰りに一緒に飲んだホットココアの味は今でも忘れられません」

 

そんな優しい父の“異変”に家族が気づいたのは、’15年ごろ。

 

「私は当時、精神保健福祉士の資格を取るために学校に通っていたんですが、それを父に話したら、すごく喜んでくれて。でも、学校の先生に『娘が通っていますからよろしくお願いします!』と電話までかけてしまったんです。よく認知症の人は感情を抑えられなくなると言いますが、父の場合も怒りっぽくなったり、反対に大げさに喜んだりすることがありましたね」

 

講演に招かれると、長谷川さんはひとりで出かけていたが、冒頭のような“症状”を思わせる言葉が日記には増えていく。これからも元気でやっていけるのだろうか……そんな不安が的中したのは、’17年6月だった。

 

「講演に向かう途中だった父は道に迷い転倒し、右肘を粉砕骨折してしまったんです。それでも会場に向かい、骨折していることを周囲に気づかれることなく講演をやり遂げたそうですが、私は“なぜ肝心なときに付き添っていなかったんだろう”と非常にショックを受けました」

 

そんな大ケガを負ってもなお、まりさんが長谷川さんの活動をサポートし続けたのは、「自分が話すことで人様の役に立てることがあるはず」という強い思いが、長谷川さんにあったからだ。

 

もし家族が、自分が、認知症になってしまったら……そんな不安を抱える人は多い。

 

「父は認知症になる以前から、近所の『カムイ』という珈琲店に行くのが楽しみで、私もよく一緒に行きました。店主は父のことをよく理解してくださっているので、ひとりでも安心してくつろげる場所だそうなんです。そして40年以上父が通ってきた理髪店の『トリム』さんは、父がひとりで行けなくなると送迎までしてくださって。認知症になってから『支えてください』とお願いするよりも、当たり前の生活ができているころからつながりをつくっておくということが大事なんだと思います」

 

最後に、長谷川さん自身が、こんなメッセージを寄せてくれた。

 

「少し前まで、社会は認知症の人に対して“そっちにいればいい。僕たちはこちらで生活するから”というような囲いをつくってしまっていました。現代は、その囲いをとっぱらわないといけない時代といえるでしょう。でも、支えがあるうちは安心して生きていける。一対一で対等な関係で話ができるときは、いつでもうれしいし、楽しいんですよ」

 

今ある絆を大切にすることで、未来への不安を振り払えるかもしれない。

 

「女性自身」2021年4月6日号 掲載

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