「売れ残ったら原価で売っちゃばいい」キャベツ1玉10円、豆腐28円…大家族経営の人気青果店が物価高と“逆行”する理由
画像を見る 柿沼家の面々。最前列左から佐千子さん、道之助さん、優助さん。中列左から健治さん、敬子さん、敏治さん、美枝子さん、後列左から正道さん、かお里さん、雅之さん、社員1人を挟んで真央さん(撮影:須藤明子)

 

■ばあちゃんが店の前にドカッと座って、ショートホープを吸う姿を覚えている

 

創業は1950年。終戦後、焼け野原だったこの町に、ポツポツとふたたび家が建ち始めたころのこと。道之助さんの母・ハヤさん(2006年没、享年89)が、リヤカーで商いを始め、1962年に現在の場所に店を構えた。敬子さんが言う。

 

「お義父さんを戦争で亡くしたお義母さんは、女手一つで子どもを養うため、がんばったんです」

 

その言葉を聞いていた長女・佐千子さんが続ける。

 

「大田区じゃ、リヤカー引いて商売したのは、うちのばあちゃんが最初だったそうですよ」

 

長男・正道さんは「町内でも一目置かれる存在、格好いいおばあちゃんだった」と懐かしむ。

 

「孫の僕には、めちゃくちゃ優しいばあちゃんでした。それと、僕がよく覚えてるのがね、いま父がそうしているように、店の前に丸椅子を置いてドカッと座って。そこでショートホープを吸ってるばあちゃんの姿。“旦那がいないからってなめられてたまるか”って感じだったんじゃないかな」

 

ハヤさんが野菜を満載したリヤカーを引き始めてから、今年で76年。いまの店の隆盛を築いたのが現会長の道之助さんと、1967年に柿沼家に嫁いできた敬子さんだ。

 

2人は見合い結婚。道之助さんは26歳、敬子さんは20歳だった。

 

「東京23区の端っこから端っこに、八百屋から八百屋に嫁いだの」

 

こう言って笑った敬子さんの実家は、東京都江戸川区にあった青果店。同業だから、多忙を極める店での苦労はある意味、覚悟のうえだった。だが、そこに育児が加わるとなると……。

 

「そうね、嫁いできてからいちばん苦労したことといったら、子育てしながら店の仕事をしたことでしょうね。次男がおなかの中にいるっていうのに、トラックの荷台に上がって、重い野菜の荷下ろしをしたりもしていたから。

 

22歳で長男を産んで、明くる年に次男が生まれたんだけど。年子の2人を育てながら店をやるのも、本当に大変だった。『あ~、もうやんなっちゃったな?』なんて、よくこぼしたもんです。私とおばあちゃん、2人でそれぞれ子どもをおぶって、店に出てましたよ」

 

“ワンオペ育児”なんて言葉が生まれるずっと前のことだが、敬子さんの子育ては決してワンオペではなかった。敬子さんは「厳しいお姑さんだったよ」と振り返るが、ハヤさんは当たり前のこととして、育児に参加してくれた。

 

「そう、本当によく手伝ってくれました。お義母さんがいてくれたからこそ、私は子どもたちを無事に育て上げられたと思いますよ」

 

店の黎明期、母と祖母の背で泣いていた幼な子たちが、いまやその屋台骨へと育ったように、青果店もまた、大いに成長を遂げる。

 

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