「あの日以来、乗ることができません」シンドラー社製エレベーター事故で16歳長男を失ってから20年…階段を上り続ける74歳母の“消えぬ問い”
画像を見る 東京都立小山台高校野球班時代の大輔くん。同期の戸田尚太さんらは、事故後の試合でも必ず彼のバットとユニホームを携えた

 

■「1番ではない、2番がいいんだ」仲間に愛された16歳野球少年の素顔

 

正子さんと夫・和民さんのあいだに、長男・大輔くんが生まれたのは、平成元年も暮れようとしていた’89年12月12日のこと。「大輔=ひろすけ」と読むように名付けたのは、和民さんだ。正子さんは、幼少時の大輔くんを、こう振り返る。

 

「幼稚園のころは、サッカーが好きでしたね。その後、小学校に上がってから野球を始めました。お友達がやっていた野球チームに入って、バレーボールまでやったんですよ」

 

スポーツ好きの大輔くんは友達も多く、中学校では生徒会副会長を務めるほど信頼も厚かった。

 

「野球のポジションはセカンド(二塁手)で、打順は2番でした。生徒会副会長もそうですが『自分は1番ではない、2番がいいんだ』と言っていました」

 

“目立つより支える側”を好む彼は、練習にも実直だった。

 

「お友達と野球の“朝練”をして、夜はマンションの下で、バットを振っていましたね」

 

正子さんは「ひろすけくん」と「くん」付けで呼んでいたのだが、中学時代にこんなことがあった。

 

「学校に用事があって私が行ったとき、なにげなく『ひろすけくん!』と呼びかけたんですね。そしたら息子が『学校では“ひろすけ”と呼べ!』って」

 

着実に成長していった大輔くんは小山台高校に進学した。もちろん部活は野球班(同校では部ではなく班と呼ぶ)に入部。朝練習、午後練習に加え帰宅後も素振りや走り込みを日課にした。

 

正子さんも「毎朝5時に起きて息子の弁当作り」が日課となった。そのかいあって、彼は2年生時にセカンドでレギュラーに。ただ一人の2年生レギュラーだった。

 

「息子は『先輩に顔向けできないプレーはしたくない』と言って、一生懸命練習していました。学校生活も楽しんでいて、男子からも女子からも『いっちゃん、いっちゃん』と呼ばれていました」

 

そんな大輔くんが不慮の事故に遭ったのは、’06年6月3日19時20分ごろのことだった。チームメートと新しいバットを購入して帰ってきた大輔くんは、自宅マンションのエレベーターに乗り込んだ。

 

エレベーターは12階で止まり、扉が開いて、大輔くんが降り始めている最中に、突然かごが急上昇してしまった。大輔くんはエレベーターのかごの床部分と、外枠の天井部分とのあいだに挟まれた。

 

いわゆる戸開走行事故であり、およそ1時間後にようやく救出され、病院に救急搬送されたものの、16歳の若い命が力尽きた。

 

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