■独身最後の思い出づくりで訪れたパリ。待っていたのは、“突然のプロポーズ”
妙通さんの本名はセツ子。’44年4月に、新潟市の裕福な家に生まれた。小さいときから読書が好きで、近所の書店に通っては、ツケで本を買っていたという。
「私が生まれ育った家は、古くさい家族制度がまだまだ残っていました。とにかく『女は25歳までにお見合いをして結婚しろ。嫁に行かなかったら困る』と両親や親戚も二言目にはそれ。結婚が嫌だったわけではありません。でも“家と家との結婚”がねえ……。商売のために『はい、どうぞ』と差し出されるような結婚が嫌でした」
家族は、両親と兄と弟、夭折した姉がいた。結婚への圧力から逃げるように高校卒業後は東京へ。明治学院大学の英文科に進んだ。
「英語を勉強してスチュワーデスになれば自立できると思ったの。でも身長が1cm足りなくて、その夢は諦めた。大学卒業後は中学の英語教師もやったけど3カ月で辞めた。なぜかって? いい男がいなかったのよ、イケメンが(笑)。
都内で兄の事業を手伝っていたけど気づいたら20代後半。実家からの見合い攻勢はさらに強まって。“もうしょうがないから、嫁にでも行くかな”と漏らした友人に勧められたのが、パリへの旅行でした」
’72年、観光ビザを手に渡仏。この年、海外旅行者ははじめて100万人を突破した。とりわけ20代の女性の旅行者が多く、創刊間もない『anan』や『non・no』の影響が大きかったという。
独身最後の思い出づくりのつもりだったが、現地で待っていたのは夫となる伊東眞澄(本名・眞實)さんとの出会いだった。
「一人旅を勧めてくれた友人に『パリに住んでいる友達』と紹介されたのが伊東でした。 彼の部屋に荷物を置かせてもらって2週間ほど気ままな旅をした後の帰国直前、荷物を受け取りに行った別れ際に『日本に帰ったらどうするの?』と聞かれて。
『親がうるさいから結婚する』と答えると、『僕も誰でもいいから結婚したいんだ』と。なんでもフランスではサロンやパーティで独身だと一人前として扱ってもらえないそうです。
だったらさっそく結婚しましょうと、その足で市庁舎に。恋に落ちた、というより、人生のタイミングがたまたま重なっただけ」
新潟にいる両親にそれを告げると、「(実家が)お寺の人だったら」とあっさりと認められた。
’72年7月に2人は結婚。パリ市庁舎前で、単衣の着物姿の28歳の花嫁が記念写真に収まった。
結婚相手の伊東眞澄さんは妙通さんの1歳下。鳥取県にある瑞泉山吉祥院の跡取り息子ながら、京都大学で哲学を学び、卒業後は洋書の輸入、翻訳出版をする会社に。妙通さんと出会ったころは、フランスの食文化についての本の出版に従事する駐在員としてパリに駐在していたのだ。
新居はエッフェル塔が見えるパリ7区のアパルトマンだった。
「でも甘い新婚生活なんてなかったわよ。だって伊東の会社の社長が人情家で、画家やシェフ、パティシエの見習い、フランスに興味のあるプロの食業界の人たちを次々とパリに送り込んでくるの。
伊東は、いつもの仕事以外に彼らの通訳やアテンドも任せられて。気づいたら私も、毎日のように日本からやってくる人たちの世話やらなんやらを、フランス語ができないくせに手伝うようになったわけです」
’70年の大阪万博を機に日本では、フランス料理ブームが起きており、より手軽なビストロが普及していた。いっぽうフランスも“美食の国”を世界にPRしはじめた時期でもある。
「そのうち日本からやってきた雑誌編集者を紹介されて、通訳をやらされ、記事を書かされ、編集作業までやらされて、気がついたらフードジャーナリストになっていたのです。
でもね、熟成度の違うチーズを食べ比べて“この土地の乳はこういう香りになるのか”と驚く瞬間に立ち会えたり、贅沢な一品のあとにはアルマニャック(高級ブランデー)がぴったり合うことなど、いろいろ知ったりできて楽しかったです」
ジャーナリストとしての活動以外にも、フランス料理の修業のためにパリにやってきたシェフの卵をレストランに紹介したり、ボジョレー・ヌーボーを世界中で流行らせようとしているフランスの企業と日本の業者を引き合わせたりと、妙通さんは日仏の食の懸け橋として活動した。
「僕も誰でもいいから結婚したいんだ」とプロポーズしてきたという伊東さん。本当は、誰よりも早く妙通さんの才能や魅力を見抜いていたのかもしれない。
