眼鏡のグラスコードに、着物の端切れを使っている妙通さん(撮影:水野竜也) 画像を見る

【前編】「しくじっていいと言われていた」パリでグルメ記者だった伊東妙通さん 鳥取県の寺の住職に転身した“意外な理由”から続く

 

チーズの食べ比べから、ワイナリーの取材、料理辞典編集のための資料集めまで。パリで結婚し、フランスの美食界を駆け回っていた伊東妙通さん(82)は、なぜ鳥取県の海辺の町の寺の住職となったのか――。

 

妙通さんが始めた鳥取での暮らしは平坦ではなかった。認知症が進む義母を施設に入れたときは「鬼のような嫁」と陰口をたたかれた。

 

「東京から来た嫁が、親を遠くへやった、みたいに言われましたね。でも言わせておけばいいの。私は、面会のたびに袈裟と数珠をもって、いっしょにお経を唱えていました。なにもかも忘れても、般若心経だけは忘れない。あのときのお義母さんのお経は本当にきれいでした。いくら私が頑張っても、追いつけないでしょう」

 

義母が施設に入る前日のこと。義母は門前に2本の八重桜を植えた。義母の名は「八重子」。記憶をなくした義母が植えたその桜は毎年、春を忘れずに見事な花を咲かせている。

 

妙通さんは、寺の再建にとりかかった。本堂の屋根を葺き替え、庫裏を建て直した。枯れていた井戸も復活させた。東京で働く夫からの援助のほか、フランス時代の貯金を使い、銀行からも融資を受けた。やがて地元の人も少しずつ手を貸してくれるように。

 

「荒れた寺を、もう一度、人が集まる場所にしたかっただけです。結婚する前に『お茶を絶やさなければ寺はなんとかなる』と母から言われたことがあります。当時はピンとこなかったけど、人が集まる場所になれば寺は存続するということ。まあ、うちの寺はお茶じゃなくて、コーヒーですけどね」

 

毎月1回の護摩焚きに、人々がお参りにやってくるようになった。寺は栄えはじめ、人も集まるようになった。

 

「浦富の権現さん」が、再び町での存在感を取り戻しつつあった’98年末、夫の眞澄さんに食道がんが見つかる。そして告知から1年後の2000年12月30日、眞澄さんは55歳で息を引き取った。

 

「2~3年は何も考えられませんでした。遺品を整理して、東京の家を片づけて、会社の残務も……。流れ作業のように毎日をこなしていました。私が後を追って死ぬわけにはいかない。

 

でも東京に戻るのか、この寺に残るのか、そんな簡単には決められません。何かを選ぶには、何かを諦めなければならないでしょう。そんなときに、20年以上一緒にいた伊東が、忘れられないような笑顔を見せてくれたことが2回あったことを思い出したの。

 

その1つが、夫の得度・受戒のとき。フランスに行っても、出版の仕事をしていても、彼の心は生まれてから死ぬまでお坊さんだったのでしょうね。ならば私が“片棒を担いで”最後までやる。それが私の役目かなと思ったのです」

 

そして眞澄さんのもう1つの忘れられない笑顔が『フランス料理仏和辞典』を刊行したときだったという。

 

妙通さんは心を決めた。鳥取に残り寺の再建をさらに進めることを。そして、夫の没後に品切れ状態になっていた『フランス料理仏和辞典』を復刊させることを。

 

1,750ページ、24,000語の単語を1つずつ調べ直して、古くなった情報を書き換え、新しい言葉と意味を書いていく改訂作業を、当時60代後半の妙通さんはたった一人でやり続けた。

 

「寺の再建も、辞典の復刊も夫の死の寂しさをごまかすためだったのかもしれないね。でも、けじめですよ、けじめ。関わった以上は人ごとではすまされなくなっただけなのよね」

 

2人にとって“わが子”のような『フランス料理仏和辞典』が復刊されたのは’15年1月16日。その日は、眞澄さんが生きていれば古希の誕生日だった。

 

その辞典は、発売から40年がたつが、今でも、日本人シェフのバイブルとなっている。

 

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