【初告白】嘉門タツオ、天国の妻へ「二度と酒は飲まない」飲酒運転事故の供述で“浅はかな考えで嘘を”
画像を見る 1996年本誌取材当時。飛ぶ鳥を落とす勢いの人気だった

 

■破門、放浪、そして再び芸能界へ……。波乱に満ちた時代に、桑田佳祐から名をもらった

 

嘉門タツオは、1959年3月25日、大阪府茨木市で生まれた。旭屋書店に勤める会社員の父と専業主婦の母とのあいだに生まれた長男で、下に妹と弟がいる。

 

「音楽に目覚めたのは10歳のときです。ザ・フォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』の世界観に影響を受けました」

 

世は高度成長のただなか、大阪万博開催(’70年)に浮かれていた。地元開催に胸を躍らせながらも、嘉門は落語家・笑福亭鶴光(75)がパーソナリティを務めるラジオ番組『ヤングタウン』に夢中になり、常連投稿者となっていた。

 

「16歳、高校生のとき、鶴光師匠を訪ね“見習い弟子”にしてもらいました。毎週土・日に師匠宅で、家事や雑事をこなしたんです」

 

芸名「笑光」を授かると、’78年4月、19歳で『ヤングタウン』のオーディションに合格。

 

「番組レギュラーで『笑光の涙の内弟子日記』というコーナーを持ち、『弟子修業のつらさ』を弾き語りで披露したらウケたんです。『師匠のギャグは、ぜんぶ僕が考えてる』とか、ほとんど放言でしたが」

 

人気はうなぎ上りで1時間番組のメイン司会のオファーが来たが、「若気の至りで、師匠の奥さんに反抗的な態度を取り続けてしまった」結果、破門となってしまう。当時の「破門」は芸能界「出禁」に等しい厳しいものだった。

 

「もうこの世界に戻れない。21歳、傷心の僕は北に向かい、稚内市、利尻島、礼文島と巡ったんです」

 

ヒッチハイクをしてユースホステルに泊まる経験をした。続いて長野県のスキー場でアルバイト。翌夏は鹿児島県・与論島を放浪。

 

「各地で出会う人々に十人十色の人生があると気づいた。どうすれば人が心を開いてくれて、笑ってくれるのかを学んだと思います」

 

“大人”になって帰阪した彼に救いの手が伸べられた。大手事務所アミューズの大阪事務所の開設時に、営業担当で雇われたのだ。

 

「当時はサザンオールスターズが『いとしのエリー』に続くヒットを狙って営業展開する時期でした。僕は『チャコの海岸物語』のプロモーションに奔走しました」

 

同曲は有線放送1位を2カ月続けて獲得し「プロモーター・鳥飼達夫(本名)」が評価された。すると桑田佳祐(67)の別働のバンド「嘉門雄三&VICTOR WHEELS」の前座で10分間、歌手としての出番が与えられた。そして桑田から「嘉門」の名字をもらい「歌手・嘉門達夫」(当時)が誕生したのである。再起は’82年10月、『ヤングタウン』だった。

 

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