戦後復興から高度成長へ。日本ラヂエーターを始めとする近辺の会社に、1社100杯単位での出前、毎日700〜800食を出していたという昭和20年代の「福寿」。出前だけで10人の従業員を駆り出していたというが、小林さんがお店に入ったのは、そんなピークをやや過ぎた頃。「店の掃除。それからどんぶり洗いと出前だよね。重たいんだよ、自転車で出前するのって。おか持ちに10杯入れて、下げていくんだから。友達も出世していくから、悲しいなあって思ってた」。そんな小林さんが調理場に立つのを許されたのはいつから? 「オヤジが生きてる間、オヤジはここに立ってたから」釜戸の前でそう語る小林さん。「“そば屋は釜前で味が決まる”、この釜も最初は薪で炊いてたんだけど、せっかちな人は薪がくすぶってるのに新しいのを突っ込む。大らかな人は消えそうになっても入れない。釜の温度の加減でもって、揚がるそばの感じも違ってくる。性格が出るんだね」。ということはマニュアル的指導は当然ナシで? 「もちろん何も聞いてない。だけどね、オヤジがそば揚げてるの見ると上手なのよ! 10杯でも20杯でもパッパ、パッパ、全然あせらず、上手にね。一番忙しい時は一度に40杯。『お前もやってりゃこうなるよ』って言われたけど、器量が違ったね」そんなオヤジさんが65歳で突然亡くなったのが30年前。「生前、『恥かいたらいけないから、継がなくてもいいよ』とは言ってた。でも元気な人だったから、僕の方が先に逝くかもとか思ってたくらいで」。よもやの出来事。「でも亡くなる前、思い立ったように店の梁を直してくれた。おかげで今日まで、改築せずに営業してこれた。『もしやるなら…』って、心配してくれてたんだろうね」