何度弟子入りを断られても諦めなかった情熱を認められ、遂に住み込みでの修業を許された飯野さん。イタリアンで6年働いてきただけに調理のイロハは身に染み込んでいたが、それでも山岸さんのやり方には面食らったという。「レシピがないんですよね(笑)。全部カンでした。麺を打つ場合も、普通は粉何キロに水何リットルとか比率が決まってて、それをはずすとメチャメチャになっちゃうんですけど、『何グラムですか?』とか聞いても、『いや、グラムじゃないから』って言われる。スープの味つけも火加減も、水分も全部感覚で覚えていきましたね」。現在、飯野さんはお店で働く若い人たちのためにレシピを作って教えている。もちろん最後は感覚が味を左右することにはなるが、最低限の基本がないと作る人によって味がバラバラになってしまうからだという。「でもレシピを作るのには苦労しましたね、僕自身、マスターの仕事を見て覚えたから、グラムとかじゃないよなって思いは正直あります」。もともと大勝軒は家族経営のお店、もっと言えば山岸さんのお店。山岸さん一人が味の秘密を知っていればじゅうぶんだった。レシピなんて必要なかった。「今から4年前。病気で倒れられてから、『自分の味を多くの人に伝えたい』って気持ちに変わったんじゃないですかね? 僕が修行してた時代は麺打ちの修行もなく、麺あげも全部マスターの"持ち場"でしたから。1日じゅう店に立って、現場を守るって気持ちが強かったんでしょうね」。現在では数多くの、のれん分けのお店が各地で営業している"東池袋・山岸大勝軒"。飯野さんは最古参の弟子にあたるが、弟子を取るようになってからの山岸さんは、麺にスープ、作り方をすべて惜しみなく伝え、弟子たちを半年程度で卒業、独立させている。レシピを作らなかったのは、秘密主義だったからでも、けちんぼだったからでもない。自分でやれるうちは、自分の役目を全て果たしたかったから、ただそれだけのこと。第一線を退いた今も、自分にできることを続けている先代の山岸さん。東池袋本店のスープの味見は毎朝欠かさない。「そろそろ来ますよ」、そう言う飯野さんに促され、時計を見ると10時20分頃。お店の窓から外を見ると、通りの向こう側からゆっくりとステッキをついて、しかし力強いしっかりとした足どりで、山岸さんがやってきた。