社会に出たころの貯金はゼロながら、億単位の資産を持つまでに至った女性がいる。そんな“億女”の言葉には、大いに学ぶべきところがある――。
「22歳で結婚した相手は『宵越しの金は持たない』という人。その人の基準に合わせていてはいつまでもお金が貯まらないと思い、専業主婦だったとき、暑い日はエアコンの電気代を節約するためスーパーで過ごすという節約生活をしていたんです。それがある日ふと、生きている意味がわからなくなってしまって(笑)」
いまや約5億円の資産を有する“億女”の熊谷和海さん(48)。癒し系の雰囲気をまとい、柔らかな語り口は、話しているだけで福を分けてもらえそうだ。現在、彼女が主宰するサロンや講演を行うセミナーも大人気。そんな熊谷さんの社会人としてのスタートは電話オペレーターの派遣社員。当時の年収は220万円ほどで生活をするのがやっとだった。しかし、今に通じるお金に対するマインドは当時からあった。
「出社するとトイレ掃除を率先してやることにしていました。お金に好かれる基本として、家族から教えられていたことだったんです」
熊谷さんは、資産管理に長けたおばあちゃんたちから、お金との付き合い方を自然と学ぶ環境で育ったという。
「基本は『楽しくお金をつくる、使う』という考え方で、ごもく(京都弁でごみ)を買わないという姿勢は身についたと思います」
そんな熊谷さんの転機は25歳のとき。「10年後も楽しく働ける仕事を探そう」と専門学校へ通い、ウェブ制作とコンサルティングを学んだ後、大手製紙企業のグループ会社に転職をはたす。
「制作の現場だったので、デザインや技術も学べる絶好の機会だったのですが、ほどなく妊娠が判明。肩たたきにあってしまったんです」
その後も夫の転勤に伴い全国を転々。そのたびにキャリアが寸断されてしまう……。悶々とした思いで札幌に赴任した27歳のとき一念発起。全国にいる優秀なデザイナーのマネジメントを行うアウトソーシングの会社を起業する。
「そのとき面倒を見てもらっていたメンター(師匠)は仕事で知り合ったコンサルタントの方でしたが、『毎月車1台分くらい稼ぐ自分を想像しなさい』と助言されたんです。成功しているメンターの存在は大きかったですね」
当時普及しはじめていたインターネット回線を駆使し、獲得した仕事を全国のワーカーに振り分けていく。ご縁を大事にする熊谷さんの姿勢は出会いを呼び込み、大きな顧客も次々と獲得していった。
「家族で食事に行った居酒屋さんに大企業のお偉いさんがいらして、世間話をするうち大きな契約をいただいたこともありました。また、私の会社に優れたクリエーターさんが集まってくれたことも大きかったです。地方では、実力のある方が腕を持て余していたんです」
個人事業主として初年度の売り上げは2,000万円。法人化し、年商1億7,000万円を達成。さらに3年後には、年商4億5,000万円に。
「事業は順調でしたが、いっぽうでこのままどこまでも拡大していくというイメージはありませんでした。仕事が多忙のあまり体調を崩し、’08年リーマンショックの年に第2子を高齢出産。これを境に仕事中心の生活から子どもたちとの暮らし中心の生活に変更。事業を売却する決断をしました」
同時期に離婚。新たなライフステージへ進み、熊谷さんの“億女人生”がはじまる。
「その後は培ったお金のノウハウと経験を生かし、不動産投資とコンサル業にシフトしていきました」
プライベートではシングルマザーとなったことでワンオペ育児に奮闘し、大変だったこともあったが、仕事と生活に関しては描いた人生の「ロードマップ」をほぼ実現することができたという。
「5年後、10年後、いつまでに、どうなっていたいのかを、常に具体的にイメージするようにしています。そのための資産をどうつくるか筋道を立てて考えました。同時に、自分が“死ぬまでにやりたい100の項目”を書き出す『パケットリスト』も記しています」
夢をかなえるには漫然と目指すのではなく“スキルと自分の資産の棚卸し”をしながら計画を立てることが大切だと熊谷さんは説く。
自分ができること、やりたいことを徹底的に洗い出し、そこからの道筋を立てて、大いに努力する。そうして得たお金は、楽しいと思えることには惜しまず使う。その循環が、熊谷さんがまとう“億女オーラ”の源泉であるようだ。