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菊地晃さん(62)は、羽生結弦選手(23)の幼いころからいつもそばにいた。長年、心と体の微妙な不調を読み解くうちに、平昌五輪前には1ミリ単位のズレを調整できるようになった。常にギリギリまで自分を追い込み、ケガのリスクと闘ってきた羽生。菊地さんは彼の不安を打ち消し、リンクで思う存分跳ぶために欠かせない存在になった――。

 

2度目の金メダルから約半年。頂点を目指し、ともに歩んできた知られざる師弟関係を初めて語る。

 

菊地さんは、羽生の専属トレーナーとして、平昌五輪に帯同。試合直前、痛みが出ないようにと祈りを込めて、羽生の足首にテーピングを施してきた。

 

五輪はもちろん、世界選手権やグランプリ(以下GP)シリーズで、羽生に付き添う菊地さんの姿は、やけに目につく。失礼ながら、見た目は普通のおじさんだ。スーツやジャケット姿の多いフィギュア関係者のなかで、白髪のオールバックで、ジャージ姿の菊地さんに「誰? このおじさんは」と思う人は多かったことだろう。

 

ふだんの菊地さんは、仙台市にある「寺岡接骨院きくち」の院長。接骨院には、羽生の専属トレーナーであることを喧伝するような装飾はない。唯一、羽生との関わりをうかがわせるのは、施術所のいちばん奥にあるベッド脇の壁に貼られた、羽生とスタッフが一緒に写った集合写真だけ。

 

「初めて結弦がここに来たのは小学校2年から3年に上がるころ。近所で練習をしていて、思いっきり足首を捻挫して、お父さんにおんぶされてきました」

 

そんな出会いから15年余。菊地さんは、羽生の活躍を陰で支え続けてきた。

 

ソチ五輪シーズンを終えたとき、菊地さんは羽生にこう言われた。

 

「日本の大会ではお世話になるけど、海外では、あっちの(カナダの)先生に見てもらっていい?」

 

ところが、’14年11月、上海でのGPシリーズ中国大会を1週間後に控えて、菊地さんの携帯にLINEメッセージが届いた。羽生からだった。

 

《先生、どうしよう》
《なんだ?》
《あのね、先生。上海に来られない?》
《ほかの先生が帯同するんじゃなかったのか?》
《う〜ん、あのね……足首やっちゃった。先生、来て、治療してくれない?》

 

「この言い方が、アイツのかわいいところなんです。本音は『ふざけんなよ、今ごろ』ですけどね」

 

悪ぶってみせる菊地さんだが、実際は、専属トレーナーを離れていた期間も、羽生に適したアップを模索し続けていたのだった。中国大会以降も、菊地さんは「チーム結弦」のメンバーとして献身的なサポートを続けることになる。

 

大会に何度も帯同するうちに、ジャンプを踏み切る瞬間で、羽生の調子がわかるようになった。

 

「いいときの結弦のジャンプは、真っすぐ上に跳びますが、調子が悪いと、ジャンプに入る足の角度がバラバラです。その微妙な違いを修正できるかは、本人の問題。でも、その違いを見極めることが、トレーナーには重要なんです」

 

テーピングも、その日の演技に大きく影響する。

 

「だから、僕は部屋に入ったときから、結弦の様子を見ていきます」

 

「先生、いつもありがとう」と答える羽生は、平常モード。黙っているときは、何か問題がある。テーピングしていても、「もう少し上、もう少し強く」と、注文が多い。しかも、ミリ単位の違いを羽生は感じているという。

 

「もう少し上、といっても1ミリくらいの違いです。すごい感覚をしていますよ。試合ごとに、結弦の感度はどんどん高くなっていきました。あれだけ練習しているわけですから、体が万全ということはありません。だから、僕の仕事は、結弦が足の先まで自分で思い描いた感覚に近づけるために、テーピングで修正することです」

 

的確なテーピングができるのは、8歳のころからその足に触り続けた菊地さんだからだろう。

 

’17-’18年の五輪シーズン。菊地さんは9月のオータムクラシックを前に、羽生に呼ばれた。

 

「その時点で、結弦の足はボロボロでした。五輪2連覇を目指すプレッシャーで、夏場に追い込んで、体を酷使したんでしょう。膝関節がかなり傷んでいました」

 

オータムクラシックで、羽生はSPの世界最高記録を更新したが、11月のNHK杯公式練習で、4回転ルッツを跳んで転倒。右足関節外側靱帯を損傷してしまう。ケガの治療とリハビリに入った羽生と、菊地さんが次に会ったのは、平昌五輪のホテルの部屋だ。

 

「初日の結弦は落ち着いていましたが、2日、3日とたつと、だんだんカーッと高揚し始めたんです。五輪に合わせて、ピークを持ってこられていることが、テーピングをしていても伝わってきました」

 

3カ月もの間、試合を離れていた羽生。しかし、感覚はかえって鋭くなっていたと菊地さんは言う。毎朝のテーピングも一発で決まった。

 

SPでの完璧な演技に涙した菊地さんは、感動の余韻に浸る暇もなく、羽生が報道各社の取材を受けている合間に急いでアイシングを施した。

 

「もうショートの感動もありません。金メダルかも、という思いもありません。とにかく“痛みが出るな、痛みが出るな”と思いながらアイシングに集中しました」

 

フリー演技前の羽生は、どこか吹っ切れたように見えたと言う。

 

結果は——。冒頭のジャンプで完璧な滑り出しを見せた羽生は、2位に10点以上の差を付けて、五輪2連覇を果たす。フィギュア男子では、66年ぶりの快挙だった。

 

平昌五輪後の羽生は世界選手権を断念。治療に励んだが、羽生フィーバーは盛り上がる一方だった。

 

4月22日には、故郷仙台でオリンピック連覇を祝う凱旋祝賀パレードが開催され、ソチ五輪時を上回る、10万8000人が沿道に詰めかけ、祝福した。菊地さんは、そのパレードには行っていない。

 

「あいつが日にちを教えてくれなかったから、お母ちゃんとの旅行の予定を入れてしまいました(笑)」

 

五輪後に送ったメールも、いまだ羽生からの返信はない。

 

「いつもそうです。僕がメールすると、しばらくして空いた時間に返ってくる。1か月後だったり、3カ月後だったり。返信がなくても試合会場で会って『先生ゴメン。メールありがとう』と。僕もどんなメールを送ったか、忘れていますけどね。それでいいんです」

 

7月2日、総理官邸で、羽生に国民栄誉賞が授与された。23歳での受賞は史上最年少となる。それでも、菊地さんにとっての彼は、8歳のときから変わらない。

 

「あいつが金メダリストであろうが、国民栄誉賞を受賞しようが、結弦は結弦です」

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