米国カリフォルニア州アナハイムは“夢の国の街”である。’55年に世界に先駆けて開園したディズニーランドは、これまで7億人を超える来場者に「ひとときの幸せ」を与え続けてきた。そして今年、アナハイムは“オオタニと夢を見る街”になった。

 

日本ハムファイターズからメジャーリーグの球団「ロサンゼルス・エンゼルス」にやって来た大谷翔平(24)。投げては162キロの剛速球で三振の山を築き、打っては3試合連続の特大ホームランをかっ飛ばした。伝説のベーブ・ルースから100年ぶりの、夢のTwo-Way Player(二刀流)の誕生に、全米が熱狂した。

 

彼をひと目見たいと、ロサンゼルスのダウンタウン(中心街)からハイウエーで30分ほど南東に下がった人口約33万人の内陸の街には、連日の酷暑にもかかわらず、国内外からファンが押し寄せている。

 

その活躍ぶりを伝えるテレビ画面に映る、新聞の写真に写る大谷選手の、すぐ近くをよ〜く探してみてほしい。きっと、エンゼルスの赤いポロシャツに、セミロングの明るいブラウンヘアをなびかせた、アジア系の女性を見つけることができるはずだ。

 

その人こそ、グレース・マクナミさん(45)。エンゼルスの広報スタッフで日系2世だ。メジャーの広報というと、大柄な女性を連想しがちだが、むしろ小柄できゃしゃである。

 

「大谷さんとは2月のアリゾナキャンプで初めてお会いしました。若いのにしっかりしていて好青年。その場の雰囲気をすご〜く読んでいるし、いろいろ物事を深〜く考えながら話す方だなって」

 

通訳として隣にいたからこそ語れる、リアルな大谷像なのだろう。

 

「それに、謙虚だと思います」

 

ちょっぴり誇らしげにそういうグレースさんだが、今回の取材のメールに《メディア担当として黒子の役割に徹しているのでとても恐縮です》と返信してくるほど、ご自身も実に謙虚だ。取材中のこんな言葉にも“黒子”に徹しようという意思が強く感じられる。

 

「私の仕事は、大谷さんの取材に来られた日本人プレスの方々をサポートすること。調整役です」

 

しかし、調整役とひと言でくくれるほどその仕事は単純ではない。グレースさんは、史上初めてベーブ・ルースと比較される大谷選手を支える、たった1人の“日本語を話せる広報”なのだから……。

 

「試合のある日は車で15分の自宅からスタジアムに隣接するオフィスへお昼過ぎに出社。メールをチェックし、大谷選手やチームに関するニュースに目を通します」

 

15時にクラブハウスへ。そして、17時過ぎまでフィールドで取材の通訳や打ち合わせをこなす。試合開始前の19時にはプレスルームに移り、スコアをつけつつネットをチェック。試合後の監督会見と大谷選手の囲み取材を仕切ると、クラブハウスでの最後の取材に同席。記者が引き揚げるのを確認してから、やっとスタジアムを後にする。

 

「帰宅できるのは日付が変わるか変わらないかぐらい。家族は夜更かしなので待ってくれています」

 

メジャーでは休みのない連戦が当たり前。選手も大変だが、チームの広報にとっても過酷な職場だ。しかし、スタジアムで目を引いたのは、プレスはもちろん、裏方の職員一人ひとりと明るく声を交わし、時にはハグする彼女の姿だった。

 

また、記者からこんな“気遣い”も聞いた。取材現場でよく出てくる英語の言葉をまとめて、それを訳した「単語表」をグレースさんが作って配ってくれた、と――。

 

「やっぱり、多くの人に理解していただくためには、まずは自分の周りの人とコミュニケーションをうまくとることが大切。それをドジャース時代に学びましたから」

 

黒子の調整役――大谷選手とともに夢を見るための“極意”は、なんと、エンゼルスのライバル・ドジャースで培ったものだった。

 

’95年、熱狂の渦中にグレースさんはいた。“生まれたときからドジャースファン”を公言していた彼女を、知人が広報部の研修生に推してくれたのがきっかけだった。

 

「大学の卒業は6月でしたが、4月からドジャースで広報研修生として働きました。初出張は野茂さんの初登板、5月のサンフランシスコでのジャイアンツ戦でした」

 

その年、日本のプロ野球から追われるように海を渡り、ロサンゼルス・ドジャースと年俸980万円で契約を結んだ野茂英雄(当時26)。初登板からトルネード投法で快投を続け、「NOMOマニア」という言葉が生まれるほど米国社会に衝撃を与えた。日本からも報道陣が大挙して訪れたことで、日本語を使えるスタッフが求められたのだ。

 

「当時は携帯もLINEもなくて大変でした。トランシーバーを片手に走り回っていましたね」

 

通訳や現地でのマスコミ対応が主だったが、契約書の見直しなど貴重な経験を重ねた。さらに――。

 

「スタジアム中を回り、各ゲートの入場者数を確認するのも研修生の役目。そこで、セキュリティ担当や案内係とお話しする機会がありました。あの体験が、いろいろな方と同じ目的を共有して働くことの大切さを教えてくれましたね」

 

ドジャースとの“縁”を結んだのは“父との夢の時間”だった。

 

沖縄が米国から返還された’72年、海外赴任先のロサンゼルスで暮らしていた森野家に長男と6歳違いの女の子が生まれ、グレース・由美子と名付けられた。父・正明さんは日商岩井航空機部に勤務し、母・幸子さんは専業主婦として一家を支えていた。

 

「父はとても厳格でした。あの時代の商社マンですから、本当に家に帰る時間も削るほど忙しくて」

 

ただ、グレースさんには、いま振り返ってみても、ほんわかと心が温かくなる、正明さんとの大切な、大切な思い出がある。

 

「成城大学野球部キャプテンだった父は、地元ドジャースの大ファン。スタジアムの一塁側ベンチのすぐ後ろに会社が年間シートを持っていて。仕事で使わないときに、連れていってもらってました」

 

照明に照らされたスタンドが埋まっていくワクワク感と、隣にはいつもはしかめっ面の父の笑顔。

 

「観戦の定番はアイスを食べて、7回のセブンス・イニング・ストレッチで歌って。エレクトーンに合わせて『チャージ!(行け〜)』って叫んで、そして寝て、帰る(笑)」

 

それは、父にとってもいとおしい時間だったことだろう。ハンサムな内野手、スティーブ・ガービーがお気に入りだった広報研修生は仕事が認められ、2年目からフルタイム勤務となった。

 

ところが野茂選手が4年目のシーズン途中に移籍。オーナーが前年に代わっていたことも影響したのだろう、グレースさんは’99年のシーズン前にドジャースを退職すると、映画会社に転職する。

 

「習得できるものはもう吸収していましたし、違う分野で実力を試したいという思いもありました」

 

誘われたスクエア・ピクチャーズでは広報マネージャーとして奮闘。「世界初フル3DCG映画を日本人が作る」という坂口博信氏(当時36)の挑戦をサポートし、’01年、念願の日米合作映画『ファイナルファンタジー』は完成した。

 

映画業界に飛び込んだ年の7月、グレースさんはドジャース時代から交際していた5歳年上の弁護士、ダン・マクナミさんと結婚。

 

「すごく陽気な、とてもアメリカ人な人。高校・大学と陸上をやってきて、今も走り続けてます(笑)」

 

CG映画に4年間精力を傾けた彼女は映画会社を辞め、アニメーション会社に転職する。そして数年後、フリーのマーケティングコンサルタントとして独立。その間、’02年に長女の彩・グレースさん、2年後には次女のキラ・碧さんを授かる。

 

「でも、人生って本当に不思議」

 

自分でも思いもよらない場所にたどり着いた昨年、’17年をグレースさんは、ひと言でこう表現した。

 

まずは、コロラド州デンバーで会社の社長をしていた夫が転身し、自宅から通勤するようになった。さらに、子どもたちがそれぞれ“自分の世界”を持ち、親離れも始まった。だからこそ、グレースさんの心を波立たせるものがあった。そのころから急に野球を観戦する機会が増えていたのだ。夫の仕事仲間や、昔からの知人を地元のスタジアムに案内したり、遠くはボストンまで足を延ばすこともあった。そのなかで、子どものころの、あのワクワク感がよみがえった。野球への思いがどうしようもなく募った。

 

まさにそんなとき――。12月8日、大谷選手のエンゼルス入団が電撃発表された。ニュースを聞いたグレースさんは居ても立ってもいられなくなった。

 

「お手伝いできることがあるならと、私からチームに連絡しました」

 

年末ぎりぎりのオファー。年が明けると、ドジャース時代の仲間からも情報を集めた。彼らの多くは他球団に籍を置いていたが、相談に乗ってくれたうえ、「オオタニのために君ができることはある」と背中まで押してくれた。仲間のエールを受け、2月初旬にエンゼルスの最終面談に臨んだ。

 

そして、“元祖パイオニア”野茂英雄と濃密な時間を過ごしたドジャース広報時代から20年。グレースさんは再び、スタジアムに戻ってきた。

 

多くの人に理解してもらうために、目の前のコミュニケーションを大切に。彼女の基本姿勢は変わらない。信頼関係を築くために、プレスのリクエストには全力で答える。その仕事ぶりを「彼女はハードワーク。期待以上の仕事をしている」と、上司もベタ褒めだ。

 

父が教えてくれた野球は、人と人をつなぐ大きなパワーを秘めている、グレースさんは改めて気づいた。

 

「相談に乗ってくれたドジャース時代の仲間、仕事をともにする日本のプレスのみなさん、それに、大谷さんも、エンゼルスの選手もスタッフも……野球を愛する人はみんな、私の野球ファミリーです」