牛久保さんが屋台を引き始めたのは、もはや戦後ではなくなっていた昭和35年の1月20日。20歳だった。岩戸景気、神武景気と呼ばれる空前の好景気が訪れていた。
夜8時頃、高田馬場からスタートして新宿歌舞伎町へ。1杯30円。この頃は大学生が客の中心だった。
「月末になると仕送りが届くのか、急にお客さんが増えてね。歌舞伎町も今みたいな街じゃなかったからね。ホテル街やキャバレーはあったけど、学生街でしたよ。歌声喫茶があったりさ」
歌舞伎町を回ると、新宿駅へ。夜行列車で行楽地に向かうお客さん、夜2時頃になると、1日の営業を全て終えたタクシー会社の人たちが食べにきた。
「でも新宿は場所代払えって人たちや(笑)、同業者の縄張り意識とか、面倒くさいことが多くてね。今では正面でも隣でも平気で同業種のお店を出せるけど、当時の商業道徳では許されなかった」
半年経たないうちに牛久保さんは屋台の拠点を赤坂に移す。
「新宿とは全くの別世界だったね。当時は料亭の最盛期で“政治は夜作られる”じゃないけど、とにかく羽振りの良い街だった。新宿で30円で売ってたものが40円で売れた。人力車を引いてた人や、料亭の板前さんとかが食べに来てくれましたね」
ただ赤坂の夜は早く、料亭は8時にはお開き。11時を過ぎると街の灯も消える。 向かう先は日比谷。永田町のタクシー会社、そしてその乗客の多くを占めていたマスコミ関係者が常客となった。
「当時の日比谷公園の付近にはNHK、そして新聞社がとにかくたくさんあった。中日、東京、ジャパンタイムス、共同通信…新聞社にはいろんな部署があって、それぞれ食事の時間帯が違っていたんだね。だから屋台としては常に客足が途切れなくて…ありがたかったですねえ(笑)」