「私はいまだに、なぜこんな目に遭ったのだろうかという思いでいます。義母の介護がなければ、私たちは離婚には至らなかったのだと思います」
’01年に離婚成立後も「悶々と考え続けている」と語るのは、離婚専門弁護士として活躍する原口未緒さん(42)の母・原口ふじ江さん(71)。話す内容とは裏腹に、声が大きく、エネルギッシュな明るい雰囲気の女性だ。
ふじ江さんは薬剤師として65歳まで勤め上げ定年退職。いまは東京都下の一戸建てで長男と2人暮らし。長女として生まれ、その背中を見続けてきた未緒さんは、「もっと早く離婚に応じていたら母は人生をやり直すこともできたのにとも思います」と語る。
ふじ江さんは24歳のとき、実兄の東大時代の友人である男性と結婚した。元夫は当時、公務員だったが、結婚後に「夢が諦められない」と一念発起し、司法試験に再挑戦。30歳で合格した努力の人だった。
「ジャニーズ系のイケメンで『こんな人がいるの?』とぽーっとなってしまったんです。弁護士として事務所を独立後、一人前になるまでは私の給料だけでやりくりをして、家計費を請求したことはありませんでした」
長女と長男に恵まれ、家族4人、つつましくも幸せな日々を送っていたが、ふじ江さんが30歳になったばかりのころ、すでにこのとき肝硬変を患い、余命宣告も受けていた義母を在宅介護する生活が始まる。しかし、このときの選択を、ふじ江さんは悔い続けることになる。
「義母は身の回りのことは自分でできたので、子どもたちを保育園に預け、仕事を再開したんです。義母にとっては私が子どもを連れて出勤したほうが、静かでくつろげるかなと思って。義母は『自分の食べるぶんは自分で』というので、買い物だけを私がして、夕食は好きなメニューを自分でこしらえていた。でも、それがいけなかったんです」
義母は2週間で倒れてしまい、搬送され、緊急入院となる。ふじ江さんは毎日仕事が終わると介護のため病院へ駆けつけていたが、結局帰らぬ人となってしまう。
そして、このことが、元夫の心がふじ江さんから離れてしまう原因となる。元夫は、この期間の介護について、後に「何から何まで至らないことばかりだった!」と、調停や裁判で主張。入院中の介護も、「訪れても洗濯ばかりして、部屋で付き添うことをしなかった」と指摘された。
「私は義母には誠心誠意尽くしたつもりでしたから、なぜなのか? と信じられない思いでした」
ふじ江さんは悔しさをにじませるが、未緒さんはこう分析する。
「母の『私なりに尽くした』というのは独りよがりなんです。『お父さんはどうしてほしいの?』と尋ねたことは一度もありません。母は自分がしたいことをしているだけで、相手がしてほしいことではないということ。そんな行き違いも離婚の原因かもしれません」
最後の手段ともいえる、介護離婚という難しい結論。離婚するかしないか、その分岐点はどこにあるのか。未緒さんは次の4つをあげる。
【1】夫の“妻への思いやり”
「義父母の介護について「自信がない」とあなたが言ったとき、『悪いね』という夫からの思いやりは感じられますか? まずは感情的にならず話し合うこと。責めるのではなく、いまの自分の気持ちを伝えるように努めてみて。まったく伝わらなければ離婚も視野に」(未緒さん・以下同)
【2】夫の“親への依存度”
「夫の親への依存度はどのくらいですか? 彼の人生において親からの自立は物心共に難しく、施設に入所してもらうことが精神的にも経済的にも不可能な状況で、夫はただあなたに介護を担わせようとするのであれば、離婚を考えることもやむなしかも」
【3】妻の“介護スキル”
「実際問題として、あなたに介護スキルはありますか? 仕事をしているほうが断然好きで、『料理や掃除など家事全般は苦手』というなら、介護スキルは低いでしょう。介護に向いていないのであれば自己犠牲の気持ちは拭えません。自立できるなら離婚もありかも」
【4】妻の“自立のための経済力”
「1~3で『離婚も視野に入れたほうがよさそう』とわかっても、まずは2人でとことん話し合うことが大切。また経済的自立(仕事、財産分与、年金)は介護離婚をする大前提。それが難しいなら、夫を経済的な関係と割り切り、感情の処理に努めるほうが懸命です」
両親の係争を長年見つめてきた未緒さんは、一時は母親に同情し、父親に反発し、疎遠にもなった。しかし同じ弁護士として活動するうちに父親の気持ちも理解できるようになったという。
「父のような完璧主義者は、求める水準も高い。母はそういう要求に応えられる人ではない。母は家事全般があまり好きではないから介護には不向きです。どちらかというと仕事をしているほうが生き生きしている。そういう人は介護を担っても自分が犠牲になっているという意識がどこかにあり、うまくいきません」