チーズの食べ比べから、ワイナリーの取材、料理辞典編集のための資料集めまで。パリで結婚し、フランスの美食界を駆け回っていた伊東妙通さん(82)は、なぜ鳥取県の海辺の町の寺の住職となったのか――。
人口1万1千人ほどの鳥取県岩美町。日本海の透明な海と変化に富んだ海岸線が続く浦富海岸の近くに、地元で「浦富の権現さん」と親しまれる寺がある。
瑞泉山吉祥院――。背後には正三角形の小さな山、門前には満開の八重桜。濃い桃色の花が、風に揺れ、その脇にある、かつて枯れていたという井戸からは水がこんこんと湧いている。
本堂に入ると、本尊の金剛蔵王権現が納められている厨子の前には虚空蔵菩薩、左右には不動明王と薬師如来が。そんな厳かな空間に、なぜかボジョレー・ヌーボーの空き瓶が供えられていた。
住職を務める伊東妙通さんは82歳。町の人から「ミョーツーさん」と呼ばれる尼僧は、黒い法衣姿で毛糸の小さな帽子をちょこんとかぶり、鮮やかな布のグラスコードがぶら下がった厚いメガネをかけて現れた。
歩くのはゆっくりでも、話し出したら口は止まらない。
「ボジョレー・ヌーボーの空き瓶? あれには御霊水が入っています。門前に井戸があったでしょう、あれね。それにお坊さんがワインを飲んじゃいけないなんてこともないでしょう。私はもともと、食べることも飲むことも仕事にしてきた人間だからね。
パリにいたころは着物を着て仕事をしていたの。日本から来た若い娘が現地のおしゃれをまねしたってかなわないから、だったら和服でいこうってね。このひも(グラスコード)はその端切れなのよ。着物を着ていくと、向こうのシェフたちが面白がって、特別にいろいろやってくれて。エキゾチックに見えたのでしょうね」
身振り手振りを交えて話す表情には潑剌さと、少女のような愛くるしさが同居していた。 住職になる前は、料理からワインやチーズ、お菓子などまでフランスの食文化を専門にしたジャーナリストだった妙通さん。
そんな彼女の話に耳を傾けているうちに日が暮れてくると、「夕食でもどうぞ」と庫裏に招き入れてくれた。法衣姿の彼女が持つグラスにはフランス・ブルゴーニュ産のシャブリの白ワインが注がれる。
「このワインは、ドメーヌといって、自社畑で収穫したブドウだけでワインの醸造までを行う生産者がつくったものです。フランスには、その土地の気候や土壌が育んだ食材を尊重して、自然の恵みをそのまま味わうテロワールという考え方があるのです」
座卓に並んだ料理のなかで印象に残ったのが、新じゃがと鶏肉のスープ仕立ての煮物。味つけは塩だけ。そこに境内で摘み取った葉山椒をどっさり。じゃがいもの土の香りと鶏のうま味、山椒の青くさわやかな香りが重なり、キリッとした辛口ワインが進む。
「新じゃがは近くの畑でとれたばかりで、地元の大山どりを使ったの。その土地でとれたものをいちばんおいしく食べる。この料理にも風土を味わうテロワールが生きていると思わない?
いまは寺のお勤めをしているけど、食べることに興味がなくなったわけじゃないのよ、むしろ逆。食べることって、生きることそのものだから。ワインもチーズも料理も、誰がどんなふうに素材を育てて、どう手をかけて皿にのるか、そういうことを見るのが好きだったし、いまもそれは変わりません」
と、チーズのかけらをポーンと口に入れて、ワインで流し込む。海辺の小さな寺で昼は読経し、夜はワイングラスを傾ける─妙通さんは、どんな人生を歩いてきたのだろうか。
