都内最古の助産院で、産前産後のママたちが“安心感”を得られる理由
画像を見る 74年の歴史をもつ助産院で働く森田玲子さん(左)、今村理恵子さん親子(撮影:高野広美)

 

「私は1941年に岩手県の現在の奥州市で生まれました。1歳のときに父親が戦死して、残された母も姉たちも病弱でしたから、自分が少しでも早く自立しなきゃと思い、高校を出て看護師を目指します」

 

そこに、折よく婦人自衛官養成所(防衛医科大学校看護学科の前身)の募集があり、受験に挑んだ。

 

「“花の東京”にある施設でしたし、難関でしたから、私が合格し上京するときには地元の新聞に載ったほど。この養成所で3年間学び、看護師(当時は看護婦)の国家資格を取りました」

 

その後、北海道大学医学部附属助産婦学校で助産師(助産婦)の資格を取るが、これには理由があった。

 

「当時の病院には、絶対的に優位な立場の男性医師の下に女性の看護師がいるという体制が確固としてあって、私には向いてないな、と思ったんです。そう、放送中の朝ドラ『風、薫る』で描かれる病院の描写のまんま。ならば、医療の現場でも、より女性が主体的に活動できる助産師になろうと考えました」

 

そして資格取得後の1968年、玲子さんは、かね子さんの長男で会社員の貞之さんと結婚し、自然な流れで森田助産院の一員となる。

 

「姑となったかね子はしっかり者で、産婆の時代から地域の信頼も厚かった。助産師としても大先輩でしたが、当時の考えで、お産の場に助産師は一人いればいいという主義。ですから手取り足取り教わったわけでもなく、私も最初から現場を任されていました」

 

結婚翌年の3月には、理恵子さんが誕生。この自身の出産体験が助産師として最大の転機となる。

 

「初めての出産は、まさに衝撃的でした。陣痛のつらさもありましたが、私はそれを負の痛みではなく、大津波のように押し寄せてくる不思議な命の波だと感じた。逆に、なんで出産に関わる医療の先達はこの状況に“痛”って付けたんだろう、それは違うんじゃないかと考えていました。

 

というのも、私が産んだ直後に思っていたのは『あと何回、これを経験できるんだろう』ということ。以降、お産に立ち会って、お母さん方が『また産みたい』と言ってもらえるような仕事をするというのが、私が助産師として働く軸となりました」

 

理恵子さんにとっては、物心つく前から、そばに赤ちゃんやママがいる生活が当たり前だった。

 

「乳児室で遊んだり、幼稚園生のころには泣いてる子をあやしたり。自宅と助産院はいつでも行き来できる造りになっていて、院にかかってきた電話を私が取ることも。それで、忘れられない出来事があります」

 

理恵子さんが小学校高学年のある日、受話器の向こうで妊婦の家族が切羽詰まった声で「生まれそうです!」と告げた。しかし、担当していた母親の玲子さんは、ママさんバレーの練習に出かけて不在だった。

 

「すぐに学校に電話しましたが、なかなか母がつかまらず、焦った私はパニックになって大泣きしてしまうんです。その後、母が戻り、お産も無事に終えますが、弟たちと一緒に『もう出かけないで』と頼んだのを覚えています。助産師の母は常に忙しく、お産も365日24時間態勢なので、家で横になればすぐ眠ってしまうということも多かったり。それでも私たちの食事やお弁当はちゃんと作ってくれていましたから、本当に心身ともにタフな人でした」

 

中学、高校時代にはバレーボール一色という学生生活を送っていた理恵子さんだったが、ある葛藤を抱えていた。

 

「幼いころから、助産師として『強くてやさしい女性』という理想の生き方を貫いている母の姿は、私には目標であり、同時にプレッシャーでもありました。そうした束縛から逃れ、女性として経済的にも独り立ちしたいと考えたとき、最終的に頭に浮かんだのは、やはり看護師という職業でした」

 

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