「だけど、お店は厳しかった。それはそれは厳しかった。何も教えてもらえなくて、できないとゲンコツが飛んできてね。…まあ、そうやって覚えていかないと、仕事って身に付かないものなんだけど。だけど当時は毎日、空見上げては泣いていたね。なんで、東京なんかに来ちゃったんだろうって」
このブログで、今まで何人もの職人さんにうかがってきたように、昔ながらのラーメン屋さんにマニュアルはない。口伝えに教えられることはなく、自分の目で先輩の仕事を盗んで、身に付けていくしかない。浅草橋「大勝軒」も例に漏れず。岩上さんがお店に入って、最初の5年間はひたすら掃除、そして雑用。調理には一切タッチさせてもらえなかったという。今までにも厳しい修行の話は、いろいろなラーメン屋さんで聞いてきたが、これは一番厳しいかもしれない。5年間来る日も来る日も掃除だけじゃ、さすがに続けられない、よね???
さて、ここで一度整理しておこう。「大勝軒」と名のつくラーメン屋さんについて。前回、前々回、そして今回と3回連続で「大勝軒」関連のお店を巡ってきたが、それぞれが別系列のお店。前々回のにぼしラーメン、松戸「まるき」の源流である永福町「大勝軒」系列店がまずひとつ。ふたつめが前回登場の、つけ麺の元祖、「特製もりそば」を生んだ東池袋の「山岸大勝軒」系列。もうひとつ、東池袋の山岸さんとゆかりのある、中野と代々木上原の「大勝軒」。
そして、今回紹介している「大勝軒」は、一番古い歴史を持つ系列のお店で、大正元年(1912年)に日本橋人形町で創業(現在本店は廃業)、日本橋界隈に数件の系列店がある。浅草橋の先代である直蔵さんは、大正3年に開店した浜町の系列店(現在、茅場町に移転)で修行の後、浅草の山谷で独立。戦火でお店が焼けたため、戦後まもない昭和21年に現在の浅草橋で営業再開と相成る。その後、岩上さんが二代目としてお店を継ぎ、現在に至る。
あちこちで見かけるけど、それぞれが違う「大勝軒」。岩上さんの話によれば、戦後のどさくさで商標登録も気に掛ける余裕もないままに、各地でそれぞれの系列の「大勝軒」が台頭したため、現在のような乱立状況が生まれたとのこと。戦後のわずか10年、20年の短期間で、一気に国民食となったラーメンのいきおいを感じさせるエピソードである。